リフレイン 04

 ――そんなこと言ってたら、命がいくつあっても足りなくなるよ! ラギは人の言うこと聞かない奴だけど、グンちゃんの言うことなら聞くんだから!
 両肩を掴んで揺さぶると、中戸さんは一瞬瞠目したものの、すぐに薄い笑みを浮かべ、憂いを帯びた瞳を隠すように、顔を逸らせた。
 ――ありがとう。木曽さんは優しいね。でも、俺には止められない。そんな権利ない。
 権利の問題じゃないとか、ラギを犯罪者にしたいのかとか、言うべきだったと思うことは後から後から湧いてきたが、その時の木曽さんは、何も言えなくなってしまった。
「ラギには死んでも言えないけど、ゾクッとした。ごく普通の動作だったのに、危うい感じがするっていうのかな。グンちゃんを性対象にする男の気持ちがちょっと分かったような気がした。恥ずかしい話、あの時部屋の外をがやがや人が通って行かなかったら、俺、何かしてたかもしれない」
 バンド内で一人だけレコード会社からスカウトが来るというセイのスター性を見抜いたように、ラギにはどこか動物的な勘が働くところがある。きっとこの中戸さんの色香のようなものも交流が始まる前から感じ取っており、だからこそ避けていたのだろうと木曽さんは思った。接点ができてしまってからは、恐れながらも抗しきれずに落ちて行ったのだろうと。
 それと同時に、このままでは壊れると言ったラギの気持ちも理解できた。
 彼女に淡泊過ぎると言われた自分でさえこうなるのだ。こんな子と付き合い、その上浮気をされたとあっては、猜疑心が強くなっても仕方がない。しかも浮気相手は一晩で複数いたのだ。
 それでも離れられない吸引力のようなものが、この子にはあるらしい。それはまだ木曽さんには分からなかったが、中戸さんがバンド練習に加わることでラギ以外のメンバーも気分が高揚したのは事実だった。
 バンドのヴォーカルとしてはいまひとつだったが、中戸さんがいるのといないのとでは、場の温度が違った。もちろん、感情表現の激しいラギの浮き沈みが、中戸さんにかかっていたせいもあるけれど。
 口実がないと離れられないところまで来ているのなら、たしかに本人の言うとおり、ラギは壊れてしまうかもしれない。
「嫉妬心に喰われて、いつか本当にグンちゃんを殺しちゃうかもしれないと思った」
 いや、今までだっていつそうなってもおかしくなかったのだ。たまたま運が良かったのか、ラギが無意識に制御していたのかは分からない。翌日までそれと分かるほど中戸さんの顔が鬱血していたことはないから、たぶん後者だろう。
 でも、ラギが犯罪者になるのは時間の問題に思えた。死なせるまでには至らないとしても、無酸素状態が一定時間続けば、中戸さんに障碍が出る可能性だってあるかもしれない。
 将来のために大学を出るまでは堪えろ、なんてラギに言っている余裕はなさそうだった。むしろ、中戸さんへの妙な執着を断ち切るためには、大学を辞めてでも打ち込みたいと思えるモノがあることが、救いになるような気さえした。
 ギターではなく恋人のことで泣くラギを見るのは初めてだったし、浮気をしたとはいえ、殺されそうになっているのに平然としている中戸さんも木曽さんには理解できなかったが、それらのことは、二人ともかなり危険な状態にあるという判断を彼に促した。
 それで木曽さんは、ラギを中戸さんから引き離すため、関西行きを承諾したのだった。
「たとえ別れなくても、物理的な距離ができてしまえば、首を絞めたりはできないからね。俺ら貧乏だから、そうそうこっちには来れないし」
 しかしラギが向こうに行くと、二人は自然に切れたようだった。
「それからしばらくして、ラギの後にグンちゃんの部屋に入った白井って子が大学を辞めたって聞いたんだ」
 ラギはそのことを、白井本人から聞いたという。白井という人は、ラギが中戸さんに紹介した学生だったらしい。
「俺は詳しいことは聞いてないんだけどね、彼、グンちゃんの顔を見るのが辛いって言ってたらしい」
「だから、俺もいつか、大学を辞めるようなことになるかもしれないと?」
「ただの偶然かもしれない。でも、ラギの前の子も辞めてるしね。まぁ、あれはラギが悪いにしても、多いと思わない?」
 中退した人の数が。
「グンちゃんが勉強しないで遊びまわってるような子なら話は分かる。でもグンちゃんて、かなり真面目で成績も良かったよね?」
「成績は良いらしいですね」
 真面目かどうかは判断の別れるところだと思うが。
 俺は、中戸さんが女装してドイツ語の講義に乗り込んできたことを思い出しながら、しなびたポテトを口に運んだ。
「普通、そういう子と付き合ってたら、つられて真面目にまではならなくても、学校を辞める方向には行かないと思わない?」
「勉強面で置いて行かれるようで嫌になった……とか」
「ああ、そうか。そういう考え方もあるね」
 木曽さんは明らかに中戸さんのケースは違うと思っているようだったが、表面上は同意してくれた。
 中戸さんと離れたラギは、すぐに何事もなかったように新しい土地に馴染んだそうだ。なりを潜めていた女遊びもまた激しくなった――どうやらラギは、中戸さんのことをとやかく言える立場ではないらしい――が、それは無理に恋人を断ち切ったことによる弊害というよりも、ただ元の彼に戻っただけに、木曽さんには見えた。自分たちから見れば短い交際期間だったが、ラギの場合、そんな短期間でも一人の人間にだけ熱を傾ける方が異常なのだ(それなりに女の子とは遊んでいたらしいが)。
 だから一昨日、ラギが中戸さんに連絡を取っていたのが分かった時には、まだこの街に来るのは早すぎたかと木曽さんは後悔の念を抱いた。
「俺はもう、グンちゃんとは関わらない方がいいんじゃないかって思ってたんだ。ラギの後の子も中退してたって分かって、グンちゃんのこと心配にはなったよ。でも、またラギがグンちゃんに入れ上げたら元も子もないからね。せっかく別れられたんだから、会わない方がいいと思ってた」
 木曽さん自身、新天地での生活や仕事に慣れるのでいっぱいいっぱいだったし、たとえ余裕があって中戸さんに手を差し伸べたとしても、彼がそれを受け入れるとは思えなかったという。
「ちょっと腹を立ててた部分もある。俺があれだけ言ってもどこか投げやりだったから。ラギみたいな奴にくびり殺されてても関係ねーやって」
 木曽さんがそんな考えを持っていたということに、俺は少なからず驚いた。一昨日の木曽さんは、中戸さんとの再会を心底喜んでいるように見えたのだ。できたら、またバンドに戻ってきて欲しいと思っているようにさえ。
 俺がそう告白すると、木曽さんは、だろうね、と苦笑した。
「いざ顔を見たらね、全部吹き飛んじゃったんだ。グンちゃんの元気な姿見たら、腹を立ててたことより、嬉しさが先に立っちゃって」
 生きててくれて良かった。また顔を見れて良かった。
 邪気のなさそうな笑顔の陰に見え隠れする不可解さを忘れたわけじゃない。中戸さんに関わった学生が、ラギを含めて三人も中退していることを知った時の衝撃や危機感も、まだ残っている。それでも、いざ再会して思い出されるのは、楽しい日々の記憶ばかりで。
「グンちゃんがいる間は、ラギの世話が楽だったのも事実だしね」
 木曽さんは、そう付け加えて笑った。
 木曽さんはとにかく、中戸さんが無事であったことが嬉しかった。これからも無事でいて欲しい。そう願わずにはいられなくなった。
「でも、グンちゃんに忠告めいたことをしても、にこにこして『ありがとう』って言うだけで、まともに取り合ってくれないことは目に見えてるからね。それで、今はきみと暮らしてるって聞いたから、昨日会えたら話したいと思ってたんだ」
 きみの将来にも関わってくることかもしれないし。
「もちろん、他の子までラギみたいになったとは思ってないよ。でも、きみがグンちゃんに惹かれてるなら……」
 中戸さんにとって危険な存在になり得るということか。
「俺もノイローゼになって、中戸さんを手にかけるようになるかもしれないから、一緒にいて欲しくない、と」
「……うん。なんか結局、きみが最初に言ったので合ってたようなもんだけど」
 どうやら俺が、木曽さんが中戸さんを好きだから、俺に中戸さんと住んでほしくないと思っているのかと訊いたことを指しているらしい。
「まぁ、ラギは特別気性の激しいとこがあるからね。だけどきみ、見た目はラギより、その、強そうだし」
 言い淀んだ木曽さんに、俺はちょっと笑ってしまった。本当は『凶悪そうだ』と言いたかったのだろう。どうも俺の人相は、善良な小市民にはあまり見てもらえないらしい。
「俺のは見かけ倒しです。気も小さいし、握力も腕力もてんでないんですよ」
 おどけて肩をすくめて見せた俺に、木曽さんは合わせて笑おうとしたようだったが、その表情は失敗していた。
「嫌な話聞かせて悪かったね。グンちゃんが自分を大事にしないなら、きみに大事にしてもらうしかないと思ったんだ」
 グンちゃんだけじゃないよと、木曽さんは念押しするように言った。
「きみがラギみたいになった時、危険なのはグンちゃんだけじゃない。ある意味、きみの方が危険な立場に置かれるかもしれないんだ」
 それはそうかもしれない。中戸さんはそうなったら流れに身を任せるだけだ。きっと自分のことも相手のことも考えない。
「俺はね、今でも時々ぞっとするんだ。ラギに音楽がなかったらって」
 ラギに打ち込めるものがなかったら。ギターが、バンドがなかったら。彼は犯罪者か廃人になっていたかもしれない。だから。
「自分も大事にして欲しい。俺が話したかったことはそれだけ」
 木曽さんはそう言うと、一仕事終えたというように大きな息を吐いて、アイスティーに刺したストローを口に含んだ。












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