肉じゃが 02

 どうせ中戸さんの分を作るならと、自分の分も弁当を作ってきていた俺は、すやすやと気持ち良さそうに眠る中戸さんを見ないように、タッパーを空にしていた。最初は眺めていたのだが、そうしていると、どうにも触れたくて仕方なくなるのだ。いくら人が少ないとはいえ、学食でそれはまずい。いや、学食じゃなくてもまずい。
 中戸さんは両腕をだらりと下に垂らし、右頬をぺたりとテーブルつけて眠っている。彼の背後の窓から降り注ぐ陽が、時折、柔らかそうな髪の上でキラキラと踊っていた。
 昼飯を食べ終え、俺自身うつらうつらしながら携帯の時計を確認していたら、中戸さんを起こすまであと五分というところで、一人の男子学生が乱入してきた。
「グンジー! 中戸群司いるかー!?」
 学食中の視線が入り口で叫んだ男に集まる。
 妙に焦った様子のその男は、明らかに俺の目の前で眠りこけている人物を捜している模様。しかし、当人に起きる気配はない。俺は渋々手を挙げた。
「ここで寝てます」
 今度はこっちに視線が集中する。こうなるんじゃないかと思って、返事するのを躊躇ったのだが。
 男は集中する視線をものともせず、ツカツカとこちらに歩み寄ってくると、無防備に涎をたらして眠る中戸さんを見て、顔をひそめた。
「あーあ、ぐっすり眠っちゃって。ま、三日も寝てなかったから仕方ねーか」
「三日も!? 仮眠とか取れないんですか?」
 俺は思わず仰け反った。研究室って、そんなに過酷なんだろうか。
「取れるけど、こいつ研究室じゃ眠れねーから。何日も泊り込みってことになると、終いにゃみんなおかしくなるからな。こんな寝顔晒されて、手ぇ出すなっつー方が無理。みたいな?」
 男はヘラッと笑ってとんでもないことをのたまった。
「女なら犯罪になるから、却って歯止めもきくんだけど、こいつ男だし。本気で抵抗されたら誰も敵わないから、気付かれなければまぁいいかみたいな感じで」
 ま、まぁいいかじゃないだろう。男だからってところでも歯止めが効くもんじゃないのか、普通。
「ま、最終的には、寝てた方、気付かなかった方が悪いってことで」
 俺が引きまくっているのをどう取ったのか、男は言い訳がましく付け加えた。
 いやそれおかしいから悪いからやっぱり犯罪だから。
 そう言ったところで、どうなるもんでもないのだろう。薄く色づいた左の頬、時々震える長い睫毛、そして半開きになった小さな唇――。
 俺自身、さっきから触れたいという衝動を抑えきれなくなりそうで目を逸らしていた代物だ。その衝動を辛うじて抑えていたのは、他人の眼。その眼のない場所なら、どうなっていたか分からない。そう、全員が共犯者になりうる研究室のような場所なら。
 あれ? でも。
「中戸さんて、基本的に拒否ることないんじゃありませんでしたっけ?」
 来る者拒まずと言われる中戸さんが、本気で抵抗とかするんだろうか。しかも誰もこの細腕に敵わないってどういうことだ。そういえば以前、うちに乱入してきた元恋人を投げ飛ばしたことがあったけど。何か格闘技でもやっていたのだろうか。
「研究室とかサークルとか、あとあとの付き合いに響くような人間とは嫌なんだと。たく、ソレ目当てでこいつと同じ研究室入った奴が何人いると思ってんのかね」
 中戸さんの研究仲間とはほとんどやっているという噂は、どうやらガセらしい。もっとも、彼らとだって、研究室に入る前に何もなかったという保証はどこにもないが。
 男は呆れたように腕を組んだが、その言い分は明らかにおかしい。ソレ目当てって、聞いてるこっちが呆れるような話で。
 しかし、男自身、中戸さんの境遇を気の毒には思っているらしく。
「可哀相だからもうちょっと寝かしといてやりたいけど、こいついないと困るんだよね。肝心なとこが進まなくて」
 彼はすっかり夢の中の住人と化している中戸さんを見下ろして、溜息を吐いた。
 中戸さんは普段、何も考えていないかと思われそうなほどのほほんとしているが、頭はすこぶる良いらしい。きっと重要な部分を任されているのだろう。
 男は何度か中戸さんの薄い肩を揺らして起こそうとしたが、中戸さんが起きる気配は全くない。男はしばらく頭を叩いたり背中をどついたりしていたが、気持ち良さそうな寝息が治まらないのと見て取ると、ひょいと俺の方に顔を向けてきた。
「きみ、こいつの知り合い?」
「はぁ。同居人です」
「ああ、きみが蒔田くんか。じゃあ、ちょっとこっち来てくれる? そう、そこに座って」
 言われるままに中戸さんや男のいる方へ行き、寝ている中戸さんの隣の席に、彼の方を向いて座る。すると男は俺の後ろに回り、俺の背を押すようにして前屈みになると、俺の肩越しに、中戸さんへとドスを効かせた声音で脅しをかけた。
「犯すぞ、オラ!」
 その途端、梃子でもテーブルから離れようとしなかった中戸さんが、突如として身を起こした。見たこともないような鋭い眼光でこちらを睨んだかと思うと、
「俺に触んな!」
 言うが早いか、俺の胸倉を掴み上げ、下から拳を繰り出そうとする。
「えっ! ちょっ! ひいっ!」
 中戸さんの豹変振りに驚くと同時に、椅子から尻が浮きそうなほどの力で掴み上げられ、逃げ場を無くした俺は観念して歯を食いしばった。視界の端に、さっきの男が謝罪するように両手を合わせているのが見える。くそう、人を利用しやがって。
 しかし。
「あえ、俊平くん?」
 さっきの声と違うことに気付いてくれたのだろうか。中戸さんは惚けた表情で手を離すと、かくんと頭を横に倒した。それは一見、小首を傾げただけに見えたが、俺には瞼がじわじわと閉まっていくのが見えていて。
「そうですよ、中戸さん。起こせって言ったでしょ。時間ですよ。起きてください」
 俺は両肩を掴んで揺さぶったが、中戸さんは「うーん」と生返事をして、手を離すとそのまま俺の胸に頭を預けてきた。
「ちょっ! 中戸さん!」
「んー……」
 慌てて身を起こさせようとするが、中戸さんは俺の服をぎゅっと掴んで抵抗した。そして俺の胸に顔を押し付けたまま。
「だいすきぃ……しゅんぺーくん……」
 それは夢の中にいるようなうわ言めいた物言いで。
 でも、俺の心臓は跳ね上がった。それに比例して体温も上がる。身体が硬直して、肩を揺する手も止まる。
 幻聴だろうか。今、俺は幻聴を聞いたのだろうか。しかし、今現在耳に入る周囲のどよめきや揶揄する声は、決して幻聴なんかではなく。(たぶん、一部始終注目されていたのだろう)
 けれど、中戸さんは平和そうに眠ったまま、
「……の、にくじゃが……」
 そう続けた。
 あ、肉じゃが、ね。ふーん。
 俺は肩を掴む手に力を込めてベリッと中戸さんを引き剥がすと、
「起きろーっ!!!」
 学食中に響き渡る程の大声を、腹の底から張り上げた。






 それから数日間。うちの大学では、蒔田俊平が中戸群司を肉じゃがで落としたという噂が、まことしやかに囁かれていた。








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