疑惑 その3 05

「恩人……みたいな人だったんですね」
 中戸さんは少し思案気に間を置いてからうなずいた。
「……そうだね、そうかもしれない。金銭面ではすごく助けられたし、先輩と付き合うふりしてからは、男とすることへの抵抗感とか罪悪感みたいなのは薄くなった、かな」
 ふりと言いながら、身体の関係はしっかりとあったようだ。男性体のこの人とどうこうなりたいなんて思ってないけれど、そういう事実を突き付けられると腹のあたりがムカムカする。
 でも、幼い頃から養父に関係を迫られ、家族を裏切っているという倫理面だけでなく、男同士でするということの背徳感にも悩まされていた中戸さんにとって、嘘とはいえ、男の恋人をオープンに見せびらかす古川透の行動は、決して小さくはない救いになったのだろう。それに驚きながらも面白がって受け入れてくれた周囲の反応はもっと。
「先輩見てたら、なんとなく、やっていけるかもって思った」
 断るより付き合う方が楽だって思うようになったのも先輩と知り合ってからだから、良かったのか悪かったのか分からないけど。
 中戸さんは自嘲気味にそう付け加えたけれど、ずいぶんと気が楽になったのは事実なのだろう。古川透への想いはどうあれ、現在の中戸さんが形成されたのは、やはり古川透の力が大きかったようだ。
 誰にも偽装だと気付かれなかったことで、恋人として付き合うのも『好きなふり』でいいんだと思うようになったと彼は言った。本気でなくとも、相手の望むことをすればいい。
「罪悪感はなかった。望まれたものは返してきたつもりだったし」
 そんなのは恋愛じゃないと思ったけれど、口にはできなかった。振り返ってみれば、自分だって似たような恋愛しかしてこなかったような気もする。この人ほど自覚しても割り切ってもいなかったし、相手をいとおしむ気持ちもなかったわけじゃないと思うけれど。
 中戸さんは、右手を添えたマグに視線を落として言葉を継いだ。
「でもどのみち、その前から俺は、俊平くんが言ってたみたいに、付き合ってた人たちを本気で好きだったわけじゃないのかもしれない」
「どうして、そう思うんですか?」
「同じだったんだ。別れを告げられた時の感情が。高校の時付き合ってた彼女と別れた時も、大学で好きなふりして付き合った人たちと別れた時も」
「古川さんの時は?」
「少し不安だった。生活の大部分を面倒みてもらってたわけだから」
「でも、古川さんと付き合ってた時は、浮気とかしてなかったって……」
「そういう契約だったんだ。だから、なるべく帰省もしないようにしてたし。それに、先輩がいなくなるまでは、今みたいに言ってくる人なんてあんまいなかったしね」
 入江先輩の言っていたことが本当なら、当時は中戸さんに告白などし辛かったのかもしれない。いくら気持ちが膨らんだって、相手は他の男と四六時中いちゃついていたのだから。しかも他の男というのが、三十近い博士課程の先輩だというのだから尚更だ。
 それでも、たまに告白してくる輩に、一途に先輩を想っているところが好きだと言われて、中戸さんは自分の『ふり』に自信を持った。そして、契約満了後は交際を申し込まれるたびに、断るのが面倒でふりでとおしてきたという。
 俺はテーブルの上にあった指輪を手に取ってみた。ラムール・サンセールの文字に指を這わす。
「どうするんですか、この指輪」
「んー、俊平くんいる?」
 あまりに突拍子もない質問に、俺の頭はがくっとなった。俺がいるって言ったらどうすんだ、この人。
「いりません」
「んじゃ元に戻しとく。もう会うことはないだろうけど、万一先輩が戻って来た時、鉢の中から無くなってるの見て、悪戯が成功したと思われるのも癪だから。『同居人に見つかって、気持ち悪がられて出ていかれるんじゃないかとハラハラしました』なんて正直に答えて喜ばせてあげる必要もないしね」
 俺はがくっと肩を落とした姿勢のまま、言葉に詰まった。なんでこの人は、当人眼の前にして平然とそんなことが言えるんだ。
「な、んすかそれ。俺、出てくなんて一言も言ってませんけど」
「言ってはないけど……」
「思ってもいません」
「でも最近あんま帰って来てなかったし、ここの家賃上がるって分かった上にその指輪見て、別の物件探す気になったのかと……」
「バイト仲間との付き合いです!」
 俺は身を乗り出して否定した。
「だいたい中戸さんの過去のひとつやふたつ、今更でしょう。そんなことでこんな条件いいとこ出てくわけないじゃないですか」
「そんなに条件いいかな」
「家賃光熱費半額、風呂トイレ別、ダイニングキッチンに無料家庭教師付」
 コーヒーの入ったマグを片手に首をかしげる中戸さんに、俺はたたみかけた。
「そんなワンルームマンション、どっかにあります?」
「無料家庭教師って……」
「もしかしなくても中戸さんです。単位落としそうになった時は頼りにしてますんで」
 俺はさっさとコーヒーを飲み干すと、指輪を置いて立ちあがった。
「それじゃあこれ元どおりにするのに、包んであった布取ってきます」
 そうだ、中戸さんの気持ちがどこにあろうと、ここにいる間は俺が唯一の同居人だ。出て行かれるんじゃないかと心配されるのも、好むと好まざるとにかかわらずこんな踏み込んだ話が聞けるのも俺だけの特権だ。同居を続けることで頭の片隅にでも居場所を作ってもらえるなら、過去の男に負けたって出て行ってたまるか。
 部屋から指輪を包んでいた薄布を取って来ると、中戸さんはシンクに移動していた。使ったカップを洗ってくれているのかと思ったら、カップと一緒に指輪も消えていて、ちょっと焦った。古川透のことなんて思い出させたから、持っていたくなったのだろうか。
 嫉妬したって始まらない。俺は布だけ渡すつもりで流しに近寄って行った。
 中戸さんは指輪をシンクの中で摘まみ、止めた蛇口を指で刺激して、水滴を落としていた。本人は姿勢を低めて、熱心に指輪を観察している。
「何してんですか?」
 布を握りしめて問いかけると、背中がびくりと揺れた。俺の気配にも気付いていなかったらしい。埋める前に眼に焼き付けようとしていたのか、きれいにしようとしていたのか。
 しかし、中戸さんの答えは意表を突いていた。
「ん、この石が本物のダイヤかどうか試してたんだ」
 本物のダイヤモンドならば、水を弾くのだそうだ。
「で、どうだったんですか?」
「弾いたから本物かもしれない」
 俺の問いに、中戸さんは考え込むような表情で答えた。やはり古川透の気持ちを察して、埋めるのが惜しくなったのか。
 しかし、中戸さんは続けて、
「家賃値上げで窮乏したら、これ売りに行こう」
 冗談なんだか本気なんだか。表情をまったく変えずに言うからさっぱり分からない。
 それでも埋めるのはやめるという意思表示かと思っていたら、はいと指輪を渡された。意図が分からなくて戸惑っていると、自分はどうやって埋められていたか見ていないから、俺に元どおりに埋め直してくれということだった。
「もし、本気だったらどうします?」
 鉢の前の床にしゃがんで、指輪を薄布に包み直しながら訊いてみる。『透』の青々とした葉が、頭上から覆いかぶさってくるようだ。俺が埋め直すのを邪魔したいのかと考えるのは、考えすぎなのだろうけど。
「え? 何?」
 中戸さんは出していた水道を止めて訊き返してきた。
 俺はもう一度声を張るのをためらった。訊きたい。訊きたいけれど、本当は訊くのが恐ろしかった。
 迷った末、口を開く。
「……もしも、古川さんが中戸さんのこと本気で好きで指輪を埋めてあったんだとしたら、どうします?」
「ないない、それはない。人にも物にも執着するような人じゃなかったから」
 中戸さんはさばさばと即答した。笑いさえ含んだ声に、安堵と反感を覚える。
 いくら変わった人だからって、どうでもいい人間を一年間もそんな契約で縛るはずないだろ。常に女の影はあったと言ったって、一緒に暮らしていれば、相手の女にも分かる危険だってあるのに。ただの男友達と思われると高を括っていたのかもしれないが。
 そんなことを考えながらも口には出さずにいると、中戸さんがこちらへやってくる気配がした。土をいじくっていた手を止めて見上げると、水をなみなみと注いだコップを持っている。中戸さんは、二日ほど水をやっていないからやろうと思ってと微笑んだ。
「どんな人にしろ、恩人ではあるんだし、唯一大事にしろって言われたものくらい責任持って面倒みないとね。と言っても、水やりくらいしかしないんだけど」
 中戸さんは俺の作業が終わってから水をやるつもりなのか、隣に座り込んで俺が土をほじくるのを眺めた。
 水をやるならなるべく隅に、そして深くに埋めるべきかと鉢の端っこに向けて掘り進む。穴の奥で指がプラスチックの鉢に触れてから、俺は布に包まれたそれを穴に押し込んだ。元どおりとは言い難いけれど、なんとなく、そうすべきだと思ったのだ。
 俺が土をかけ終えると、中戸さんは礼を言って、根っこ付近に水を注いだ。
「本当はちょっと後悔しかけてたんだ、先輩のこと」
「え、」
 しゃがんだまま土に水がしみ込んでいくのを見ていた俺は、隣で同じように鉢の中を見ていた中戸さんに視線を移した。微かに笑みを浮かべた横顔は、土の中から垂直に伸びる幹をいとおしそうに見ている。
「俊平くんに出て行かれたら、こんな穏やかな生活ができる保証なんてどこにもなかったから。でも、今の平穏は俊平くんのおかげだけど、こうやって俊平くんと暮らせてるのは、先輩がこの部屋をのこしてってくれたおかげなんだよね」
 俺は嬉しいような悲しいような気分になって、視線を戻した。俺にとっては今ほど刺激的な生活もないのだが、この人にとっては今が一番何もない時期なのだ。それをもたらせているのが俺だと思われていることは嬉しいが、まだ四半世紀も生きていないのに、年寄りのように何もないことにしがみつこうとしている姿は痛ましかった。
「……ごめん。こんなこと言ったら、良い物件が見つかっても出て行き辛くなるよね」
 そんなつもりじゃなかったんだけど、とうなだれる中戸さんを抱き寄せそうになり、俺は出しかけた手を握りしめた。
「俺、そんな簡単に出てったりしませんから」
 握った手を鉢の上で開き、土を払って立ち上がる。
 中戸さんが観葉植物からこちらに顔を向けたことに満足して、俺は『透』に宣戦布告するように言った。
「家賃上がってどうしようもなくなっても、さっきの指輪売っ払って足しにできるし」
 そうだ。古川透なんて、しょせん中戸さんに平安を与えられなかった男だ。しかもいらんこと覚えさせやがって。中戸さんの本心は相変わらずよく分からないが、いざとなったら容赦なく指輪を売り払って、俺がここにのさばってやる。
「ありがとう」
 久しぶりに直視した中戸さんの笑顔はやっぱり綺麗で、俺の気負いをゆるゆると溶かしていって。
「別に、お礼言われるようなことじゃ……」
 俺は熱くなる頬を隠すようにして、落としきれなかった土を流しに洗面所へ向かった。
 気持ちが入っていようがいまいが、そんなことおかまいなしに中戸さんの笑顔は俺の鼓動を高鳴らせる。そして、何にでも即効性のある特効薬みたいに、苛々している時は落ち着かせ、落ち込んでいる時には明るくしてくれる。
 中戸さんにとっては平和すぎるくらいでも、俺には刺激物ばかりのこの生活。まだまだ疑惑の芽は出てくるだろう。よく効く薬は毒にもなる。あんなものを使い方もあやふやなまま(意図的に使っているとはどうも思えない)デフォルトで持ってる危険人物との暮らしを、そうと分かっていて手放せないのだからしょうがない。
 それでもあの笑顔を間近で見ていることができれば、この先どんな疑惑が襲ってきても、簡単に蹴り飛ばせていける。
 そんな気がした。








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