疑惑 その3 04

 マンションに帰ると、中はすでに真っ暗だった。鍵を開けると自動で玄関の電気が点灯する、なんて気の利いた設備はうちにはない。
 中戸さんは玄関の電気を点けて中に入ると、ダイニングの扉を開けて、俺に先に入るよう促した。ダイニングに足を踏み入れると、途端に視線を感じるような気がした。掃き出しの西側にある観葉植物『透』が、恨めしそうにこっちを見ているような錯覚に陥ったのだ。
「どしたの、そんなところに突っ立って」
 後から入ってきた中戸さんが、さっさと灯りを点けて途中で買ったビールを冷蔵庫に入れに行く。俺は雄々しく葉を繁らせる『透』を横眼で警戒しながら、自分の使っている和室に荷物を置きに行った。ダイニングから中戸さんが、「ビールとコーヒーどっちがいい?」と声を投げてくる。そして俺が答える前に、こっちに顔を覗かせた。
「日本酒飲んだばっかだから、ビールはまずいかな」
 俺は散々迷った結果、コーヒーを選択した。中戸さんの元彼の話なんて、エチルアルコールどころか、メチルアルコールでも飲まないと聞けないと思ったが、ここで理性を手放すわけにはいかないと、他でもない理性が主張するので受け入れた。人間らしい生活を続けるためだ。人間らしさを司る大脳新皮質の言うこともきかねばなるまい。
 俺は意を決してダイニングに出ると、テーブルの上に例の指輪を置いた。『透』の視線がちょっと痛い。そんなことを感じる俺は、もっと痛い。
 うちで話をするという中戸さんの提案を受け入れるということ。それはつまり、ずっと避けていたマンションに二人きりという状況に甘んじるということだ。しかも夜に同じ空間というオプション付き。これはまずいのではなかろうか。うん、非常にまずい。閉鎖された空間で差向いになって昔の恋人の話を聞くなんて、今の俺にはハードルが高すぎる。どんな自分が出てくるのか見当がつかなくて恐ろしい。嫉妬のあまり、ぽろっと本音を言ってしまわないとも限らない。そうしたら俺は、夜はまだ冷え込むことのあるこの時期に野宿の危機再び、だ。
 そう思った俺は、ここに帰りつくまでに様々な抵抗を試みた。
 中戸さんに促されて部室を出た時には、自分に釘を刺す意味も込めて、敢えて訊きたくないことも訊いた。
「好き、だったんですよね? 古川先輩のこと」
 自発的に言われるよりましだと考えてのことだった。
 廊下を通り過ぎる風が肌寒かった。他のサークルはまだ活動をしている時間帯らしく、賑やかな声が廊下にこだましていた。俺は暗くなりゆくサークル棟の廊下で、部室に鍵をかけている中戸さんの背中を見ながら、途方に暮れていた。
「好きだったよ」
 中戸さんは鍵を引き抜きながら、さらりと答えた。まるで鼻歌でも歌うように。
「尊敬もしてるし、感謝もしてる。でも、」
「でも?」
「この先は、ここでは言えない」
 ちくりちくりと俺にダメージを与えていた中戸さんは、振り返って再び俺を促した。俺はしぶしぶ、彼の後について歩き出した。
 帰る途中でも、晩飯にしようと屋台のラーメン屋に引っ張って行ったり、ビールを買おうとスーパーに寄らせたりして、都度そこで話を蒸し返してみたが、中戸さんは一切続きを話そうとはしなかった。家で聞きたくない俺がいくら外で聞き出そうとしても、「ここでは言えない」の一点張り。道中どうしてだと食い下がると、「壁に耳あり障子に目あり」と、まるで屋内にいるかのように言われた。しかし、建物の内外問わず、中戸さんの動向が大学内ではやたらと知られているのも事実で。
 俺は仕方なく、マンションに辿り着くまでに腹を括ることにしたのだった。
 






 腹を括りきれたわけではなかったが、それなりの覚悟をしてリビングに出ると、中戸さんが二人分のコーヒーをテーブルに用意してくれていた。
 定位置になっている和室側の椅子に腰かけると、中戸さんも俺の向かいに着席した。ポケットからさっきの指輪を取り出し、少し手の中で転がしてから、テーブルの中央付近へ置く。
「この指輪本物っぽいし、先輩が『透』に埋めたのかも」
「古川さんが?」
 その線は考えなかった。
「うん」
 微笑混じりの懐かしげな表情に、苦々しく思いながらカップの取っ手を握る。いつもなら優しく鼻腔をくすぐる香が、今日はどうにも鬱陶しい。
「でも、普通の人が想像するような意味じゃないよ。たぶん、俺が見つけて動揺するの想像して面白がってたんだと思う。そういう悪戯の好きな人だったから」
「悪戯でカルティエなんか仕込むんですか」
 本物なら十万は下らないと箱辺さんが言っていた。
「本物とは限らないけど。でも、ロマネコンティらっぱ飲みするような人だったからね。ひと目見て偽造品だって分かるようなものだったら、悪戯だっていうのもすぐ分かるじゃない」
「でも、付き合ってたんでしょう、その人と」
 いくら悪戯好きの男でも、付き合ってる奴を陥れるために指輪を贈るなんて考えられない。それも十万以上もかけてなんて。試しに着けてもらったら、サイズも中戸さんの左手薬指にぴったりだった。
 俺だって悪戯であってくれた方がいい。やきもきしながらもこの部屋から出て行けない俺が、この人を置いて平気で海外へ行っちゃうような人に勝てるわけがない。
 でも、あの指輪を見つけたのは俺だ。あれは保存状態も考慮されないまま、植木鉢の深い位置に埋めてあった。悪戯に必要な愛の言葉も読み取りづらい状態になっていて、人に見せようなんて意志は感じられなかった。悪戯ならば、もっと見つかり易い場所に置いておくだろう。あんな、何年も誰にも見つからないような土の中なんかじゃなく。
 中戸さんが悪戯だと言えば言うほど、俺には彼が傷つきたくないためにそう言い聞かせているように思えて。
「意味なんて分かり切ってるじゃないですか」
 持ちあげていたカップを置いて吐き捨てた俺に、中戸さんは落ち着いた調子で言った。
「契約だったんだ、古川先輩とは。ここを間借りさせてもらう代わりに、恋人のふりをするっていう契約。だから本当に付き合ってたわけじゃない」
 思いがけない単語に、カップから顔を上げる。
「なんですか、それ」
 そんな契約をして、何の利点があるというのだろう。しかも入江先輩の話だと、人前で堂々と抱き合ったりキスしたりしてたって。それが全部ふり? 古川って人は、ふりで男とそんなことできてたっていうのか。
「昼間も話したけど、古川先輩って変わった人でね、金や身体張って悪戯仕掛けるような人だったんだ。俺に恋人のふりしろって言ったのも、周りがびっくりしたり気持ち悪がったりするの見て楽しむためだったんだと思う。ここに住めって言ったのも、その方が恋人っぽく見えると考えたからだろうね。あの人女性関係が派手で、男と付き合うなんて嘘ついても誰も信じそうになかったから」
 古川透という男は、いい年をして子どもみたいなことばかりしていたのに、何故か女性に人気があったらしい。それは容姿や財力のせいかもしれないし、あちこちに海外旅行をして女性をうまくエスコートする術を身に着けていたせいかもしれない。しかしだからといって、男子生徒たちに疎まれていたわけでもなかった。アホみたいな悪戯や奇行のせいか、はたまたすでに三十路一歩手前だったせいか、みんな迷惑がりながらも憎めない様子で、一目置いてもいたという。
「悪趣味にもほどがあるけど、俺はその悪戯に加担したおかげで、一年間、家賃も光熱費も払わずに済んだってわけ。だからこの指輪は、最後に俺をはめるための仕掛けだったんじゃないかな」
「中戸さんが動揺するところを自分が見れるとは限らないのに?」
「そういう人だったんだよ。一週間くらいは、どんな反応するか幾通りも想像して暇を潰してたと思うよ」
 今頃は指輪を仕掛けたことなんて、すっかり忘れてるだろうけど。
 中戸さんは苦笑交じりに言ってから、悪戯っぽく微笑んだ。
「先輩とはもう会うこともないだろうけど、契約違反になるから入江たちには内緒ね」
 俄かには信じられない話だった。いくら自分が楽しむためとはいえ、生活費を負担してまで悪戯に加担させるだろうか。たしかにうちのマンションは、そんなに築浅なわけでも立地が良いわけでもない。セキュリティーなんてそこいらの学生用ワンルームマンションの方が進んでいる。だからといって、ワンルームマンションよりこの2DKの方が家賃が安いわけではない。光熱費だって、二人いればその分多くかかるわけで。でも、この部屋の外ではどこから話が漏れるか分からないから、中戸さんはマンションに帰るまで口を閉ざしていたのだろう。
 俺は古川透に思いを馳せ、どんな金持ちの変人なんだと溜息が出てきた。そうでもしなければ同性に恋人のふりをさせることなど不可能だと判断したのかもしれないが。その発想だって、酔狂すぎてついていけない。
「本当に、ふりだったんですか?」
 俺の問いかけに、マグを持ち上げようとしていた中戸さんが顔を上げた。
「うん。ふりだよ」
「ふりで、入江先輩が言ってたみたいなこと……」
「古川先輩は平気でできる人だったよ。それに、」
 中戸さんは軽い調子で言って言葉を切った。
「それに?」
「俺はどのみち、ふりしかできない」
 中戸さんは静かに言って、コーヒーの入ったマグに口をつけた。さっきまでとは違う抑揚を欠いた物言いに、背筋が冷たくなってくる。
 好きな振り。愛してるふり。必要なふり。そうだ、内心はほとんど上の空でいるという中戸さんの愛情表現は、すべてふりだ。おそらくは、豊かに見える感情表現さえも。
 だけど、上の空でない時がないわけじゃない。そして、今の平気な顔がふりではないという証拠もない。家賃や光熱費を持ってもらっていたとはいえ、来るもの拒まずの中戸さんが、古川透と付き合っている間は彼だけだったというのだ。今の態度が演技である確率の方が高いだろう。
「俊平くん?」
 顔を上げると、中戸さんが心配そうにこちらを見ていた。
「……軽蔑した? 怖い顔して」
 俺は黙りこくったまま、指輪を睨みつけていたらしい。別にとかぶりを振って、コーヒーカップを持ちあげる。冷めて苦味の増した液体は、あまり美味くは感じられなかった。それが、俺は彼に相応しくないのだと突きつけられるようで。
「そんなんじゃありません」
 俺には指輪が悪戯のために用意されたものだとは思えなかった。テーブルの上に置かれた指輪は、シーリングライトの光を受けて、俺よりもこの場に馴染んでいるように見える。薄汚れた姿も中戸さんの傍に在り続けた年月を表している証拠だと思えば、見せ付けられてでもいるかのようだ。
「ただ、すごい人がいるんだなってびっくりしただけです。軽蔑とかは別に。中戸さんが後悔してないなら、それでいいじゃないですか」
 驚愕していたのは本当だ。軽蔑していないのも。でも、心のどこかで後悔はしていて欲しいと思っていたかもしれない。吐き捨てるような言い方に聞こえていなければいいが。
 どう聞こえたのかは分からないが、中戸さんは淡々と応じてきた。
「うん、後悔はしてない。先輩といたから学内で名前知られちゃうようなことになったけど、先輩に会ってちょっと楽になったのも事実だから」
 『ふり』で良かった古川透との生活はやはり、本気になれない中戸さんにとっては他の人との暮らしより安穏なものだったのだろう。中戸さんが彼にどこまで話しているかは分からない。しかし古川は、中戸さんの性格をよく理解していたのかもしれない。だから契約という形で、彼の心に負担をかけないようにしたのではないか。それでも何かを遺したくて、指輪を見つからないように餞別の鉢植えに託したのだとしたら。
 そうだとしたら、そこまで中戸さんを思いやれる人に、気持ちに気付かれるのが怖くて逃げ回っている俺が敵うわけがない。
 






 


 


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