疑惑 その3 03

「いなくなった?」
 あの中戸さんが棄てられてというのだろうか。いやでも、中戸さんが自分から別れを切り出すことはなさそうだから、今までの恋人はすべて、自ら去っていたと考えるのが妥当かもしれない。実質的な精神状態はどうあれ、端から見れば、どの相手の場合も中戸さんが棄てられたように見えるだろう。
 しかし、古川透の場合は少し違うようだった。
「ああ、仕事で海外に行ったんだよ」
 入江先輩は吸っていた煙草を紙コップに入れ、新たな煙草を出しながら続けた。
「ブラジルだったかインドネシアだったか。資産家の御令息だったって言ったろ? じいさんがでかい会社経営してたらしくてな、そこの研究室に就職して。海外の研究室に行ったのは、将来の幹部候補の社会勉強って感じじゃねーかな。だから、今もそこにいるとは限んねーけど」
 一度言葉を切って、先輩は煙草を深く吸い込む。巻き紙の先端が、ぽうっと赤くなった。
「正直びっくりしたよ。先輩が卒業してあっさり海外の研究所に行くって言った時は。あんなにひっついてたのに、グンジも全然引き留めようとしねーしさ。でも、二人は分かってたんだろうな。いくら好き合ってても、古川先輩の立場上ずっと一緒にいるわけにはいかないってさ」
 これは何かの拷問だろうか。心臓をじわりじわりと握り潰されていくような気がした。
 中戸さんが今のようになったのは、幼少時のトラウマが原因とばかり思っていたのに、そんな過去があったなんて。今まで、誰も本気で好きになったことはないと思っていたのに、そこまで関わった相手がいたなんて。
 でも、だから中戸さんは指輪を埋めたのだろう。叶わない恋だから。それでも断ち切ることができないから。だから捨てるのではなく封印した。
「とにかくそれからだよ。グンジが誰とでも寝るようになったのは」
 俺の湿った内面を払拭するかのように、少々投げやりな調子で入江先輩が言った。
「そういうわけだからさ、多少気持ち悪いかもしんねーけど、大目にみてやってくれよ。蒔田と同居始めてからは、そんなに無茶な付き合い方はしてないみたいだし。あれでもマシになったと思って見てるんだ、俺は」
「はぁ……」
 以前は恋人の切れ間がなかったのだと言われれば、たしかに今は少し落ち着いているのかもしれない。でも、俺や入江先輩の知らないところで中戸さんが誰と何をしているかなんて分からない。現に俺は、今中戸さんの心の大部分を占めているらしい人間の名前すら知らないのだ。
 そんなことを考えて生返事をしていると、思い切り顔に煙を吹きかけられた。
「おまえだってあるだろ? 失恋の痛手を他の女で癒そうとしたこと」
「気持ちとしては分かります。でも俺、そんなにもてませんから」
 高校の時、付き合っていた女に振られてすぐにそいつの幼馴染に告られて付き合ったことはあるが、別に癒されたかったわけじゃない。やらせてくれそう、という下心があっただけだ。振られた女とはキス止まりだったし、当時はまだってことに変な焦りを感じてもいたので。
 癒されたいと思った時(といっても、失恋じゃなくて病気になった時とかだけど)にいたのは、すでに死んでしまった祖父と、死んでも好きになどなってくれそうにない中戸さんくらい。自慢じゃないが、女性に怖がられることはあっても、好かれる面はしていないという自覚はある。
 煙がしみて涙目になりながら言うと、入江先輩はぶはっとふき出した。またも煙草の煙が俺を襲う。
「蒔田! おまえはいい奴だ!」
 入江先輩は身を乗り出して来て、俺の肩をばしばし叩いた。吸いさしの煙草を持ったまま叩くので、俺は服に先が落ちてこないかと気が気じゃなかったのだが、先輩は上機嫌だ。
「そうだよなー、そういうもんだよなー、そうそう都合良く好きになってくれる奴が出てくるわけないよなー」
 俺は両肩に来るリズミカルな衝撃を受けながら、今までの認識との食い違いに当惑ししていた。
 俺は今まで、中戸さんがいろんな人から言い寄られるのは、彼にとっては決して好ましい事態ではないのだと思っていた。付き合うのも寝るのも、断れないからだと、断るだけの正当な理由を見つけられないからだと。しかし、忘れられない人を忘れるためだったのだとしたら。そして今少し落ち着いているのは、新たに好きな人ができたからだとしたら。
 いや、どちらにしても同じことだ。
 俺はジーンズの尻ポケットにそっと手を差し入れ、指輪を握り込んだ。
 この指輪は用なしになった。そして俺は元から用なしだっただけのこと。
「やっぱグンジが異常なんだよなー」
「誰が異常だって?」
 やっと入江先輩が肩を解放してくれたところで、第三者――もとい、当事者の声がした。中戸さんが用事を済ませて迎えに来てくれたらしい。
 俺は急いで指輪から手を離した。今は新たに気になる人がいるとはいえ、中戸さんが見たらいい気はしないだろう。
「楽しそうだな、入江。俺の悪口で盛り上がってたのか」
 中戸さんが入って来るのを見た入江先輩は、煙草を紙コップに入れて立ち上がった。ぐしゃりと潰して、流し台のある方へ向かう。
「悪口だなんてそんな。ちったぁまともな人間なんだってことを蒔田に説いてやってたんじゃねーか。弁護してやったんだぞ、俺は。ありがたく思え」
「どうせロクでもないこと吹き込んでたんだろ。俊平くん、こいつの言うことあんま信じなくていいから。むしろ信じないで」
 入江先輩と入れ違うように俺の傍にやってきた中戸さんが、顔を覗き込んできた。
「もう起きて大丈夫なの?」
「もう大丈夫です。すみません」
 熱を測るように額に手をあてられそうになって、慌てて顔を反らす。
「そ?」
 中戸さんは気を悪くする風もなく、ならいいけど、と微笑んだ。しかし。
「入江、おまえやっぱり俊平くんに変なこと言ったんだろ。今なんか拒否られたんだけど」
 俺の反応に対する矛先は入江先輩に向かっただけだった。
「ばか言え。それは俺のせいじゃなくおまえのせいだ。それ以上蒔田に嫌われたくなかったら、少々寂しくても自制するんだな」
「はぁ?」
 何の話だ、と首をかしげる中戸さんに、入江先輩は自分で考えろと手を振った。
「んじゃ俺帰るわ」
「なんだよそれ。あ、でも、俊平くんのことありがとな」
「おう。鍵頼むわ。蒔田もまた飲もーぜ」
「あ、ありがとうございました」
 入江先輩が投げて寄越した鍵をキャッチして、中戸さんは俺に向き直った。
「んじゃ、俺たちも帰ろうか」
 俺はうなずいて、ソファの端に置いていた鞄を掴んで立ち上がった。その拍子に何か落ちたらしい。カチリと硬いものが床にぶつかる音がした。
「落ちたよ」
 とすかさず中戸さんが拾ってくれる。ありがとうございますと受け取ろうとした俺は、彼が摘まんでいる物を見て固まってしまった。
「へぇー、俊平くんも指輪とかするんだ」
 窮屈なポケットの中で握って、なおざりな離し方をしたからだろう。中戸さんが拾い上げたのは、例の指輪で。
「あれ、でもこれ……」
「すみません! 悪気はなかったんです!」
 気付かれたとあっては謝るしかない。自分が封印した指輪を掘り出されたと分かったら良い気はしないだろう。大切な思い出の品ならば尚更だ。もとは分からずに掘り出したとはいえ、中戸さんが埋めたのだと思い当たった時点ですぐに元に戻すべきだったのだ。
 俺は思い切り頭を下げた。
「あのマンションの回覧のコピーを探してる時に見つけたんだけど、すぐ傍に有川がいたから咄嗟にポケットに入れてそのまま……っ。目で確かめずにポケットに押し込んだからその時は指輪ってすぐ気付かなくて、しかもそんな大事な物だったなんて知らなくて、だからあの、決してこれを手掛かりに中戸さんの過去を探ろうとしたとかじゃなくて、さっき古川さんの話が出たのもほんとたまたまで、それだって話の途中までは古川さんが指輪の贈り主だなんて思ってもいなくて……」
 何を言っているのか自分でもよく分からないまま必死で弁解を続けていると、中戸さんにストップをかけられた。
「ちょっ、ちょっと待った! この指輪、俊平くんのじゃないの? てか、なんで古川先輩が絡んでくるの」
「え、だってその指輪、中戸さんが古川さんから貰って『透』に埋めたんでしょう?」
 冷静に考えれば、中戸さんは他人に指輪を隠したことを知られたくないために、わざと俺のじゃないのかと言ったのかもしれなかった。しかし、わけが分からないといった表情で「はぁ?」と首をかしげる彼に苛立ちが募って。
「俺にまで空とぼけなくていいですよ。古川さんのこと本気で好きだったのに、どうしても別れざるをえなかったから、古川さんから貰った大切な指輪を餞別の鉢植えの中に埋めたんでしょう!?」
 言ってしまってから何かがやばいと思ったがもう遅い。
「俺、別に中戸さんが本気で男好きだったからって軽蔑とかしませんよ。だから、俺に気持ち悪がられると思ってしらばっくれてるならやめてください。辛いこと思い出させちゃったのは謝ります。大事なものを勝手に持ち出したことも」
 そこまで言って、やっと何がやばいのか気付いた。内面に踏み込まれるのを嫌がっている節のあるこの人に、直接話せと言ってどうする。そうでなくても俺は、知りすぎているために他人行儀な態度を取られているようなのに。
「あ、でも本当に、中戸さんのこと調べようとしたとかじゃないんです。だから、その、言いたくないなら言わなくてもいいんですけど……」
 ついでのように言ってみたが、中戸さんの表情は変わらなかった。指輪を持ったまま、眉をひそめて俺を見ている。
 俺はいたたまれなくなって、再び頭を下げた。
「すいません」
 人の物を持ち出して。古傷を抉るようなことをして。あなたの過去に興味を持って。
 古川透との蜜月話を聞かされたのは、きっと深入りしようとした罰なんだ。
「入江に何聞いたか知らないけど」
 戸惑いを隠せないような声音に顔を上げると、中戸さんは指輪に視線を落としていた。
「この指輪埋めたの、俺じゃないよ。こんな指輪、見たことも触ったこともない」
「入江先輩には何も聞いてません。指輪のことも話してません。内側のイニシャル見て俺が勝手に勘違いしたんです。でも分かりました。中戸さんは関係ないんですよね」
 知らないことにしてくれということなのだろう。俺はなんとか声を絞り出した。言いたくないなら言わなくていいと言ったのは俺だ。ここは芝居に乗らなくてはならない。
 最後はちょっと嫌味っぽくなってしまったが、俺は中戸さんの話に合わせたつもりだった。しかし中戸さんは、俺の嫌味に気付いたのか、猛然と弁解のようなものを始めた。
「本当なんだ。俺、古川先輩に指輪なんかもらったことないから。俊平くんの話だと、これは『透』の中から出てきたみたいだけど、俺はあの中に物を埋めたこともない。だから、本気で途中まで話が見えなくて」
「分かりましたって」
「分かってないでしょ」
「分かってますよ」
 中戸さんが思い出を守ろうとしてることくらい。守りたいなら封印なんてしなきゃいいのにと思うのは、俺の勝手なのだろうけど。
「それは俺も見てないことにしますから」
「やっぱり分かってないじゃん。だいたい先輩とは……」
「古川さん、とは?」
 中戸さんが不自然に口許を抑えたので、俺は思わず訊き返してしまった。中戸さんはしばらく、両手で口を押さえたまま気まずそうに室内を見回していたが、やがて手を外してぽつりと言った。
「……俊平くんになら、話してもいいかな」
「何をですか」
 何かを決意したような物言いに、心臓が不整脈を訴える。
 中戸さんは表情を改めると、一度指輪を高く投げ上げ、片手でキャッチして言った。
「ここじゃなんだから、うち帰ろうか」








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