疑惑 その3 02

 あの部屋は、中戸さんが誰かと一緒に借りたのが最初かと思っていた。中戸さんの使っているベッドだってセミダブルだし。誰かが借りていたところへ中戸さんが入り、その後譲り受けて今に至るということだろうか。
「……どんな人だったんですか、その、古川さんて」
 肺の辺りで、知りたい気持ちと知りたくない気持ちがせめぎ合い、結果知りたい方に軍配があがって、俺は恐る恐る口を開いた。
「んー、変わった人だったよ。ふらぁっといなくなってエアーズロックの絵葉書送ってきたと思ったら、その翌日にインドから国際電話掛けてきたり、アンコールワット見てくるって言って出て行って、ベガスでひと山当てたとか言って船買ってきたり」
「どっかの資産家のご令息だったんだよな、たしか。俺らが一年の時、あの人もう博士課程だったんだけどさ、前年の時点で論文できあがってたのに、まだ遊びたいからって提出せずに一年卒業遅らせたとか」
「そうそう、ここの応接セットも、もともと古川先輩がうちに置いてたやつだしね。あの時はまだ穴も開いてなかったのに、よくポンと寄付するなぁと思ったよ」
「知ってっか、蒔田? これ、イタリア製なんだぜ?」
 このソファ、座り心地がいいと思っていたら、どうやら本当に高級品だったらしい。俺とは住む世界が違いすぎる人のようで、イマイチ想像が追いつかない。俺なんて、未だ日本から出たこともないのに、ふらぁっと南半球って……。
「背ぇ高くて男前っていうか、まぁ、正統派の男くさいイケメンって感じだったんだけど、合法ジャンキーで、大学じゃ今のグンジ並みに有名人でさ。ハッパやりたくなったっつってスペイン行ったり、闇鍋にベニテングダケ入れたりすんのなんて日常茶飯事」
「家で烏羽玉も育ててたよ。ヒクリさまって呼んで」
「うばたま? 何ですか、それ」
「サボテン。幻覚作用のあるメスカリンを含んでて、輪切りにして干したのをメスカルボタンっていうんだけど、それを闇鍋に入れるって言ってね。食ってみたらまずいわ吐気するわでいいことなかったから、さすがに止めさせたけど」
 食ったんですか、中戸さん。
「最初にグンジ女装させてミスコンに送り込んだのも先輩だったよな。俺らが入るまでは結構女たらしでとおってたらしいんだけど、先輩が捨ててたっていうより、どの子もあの人についてけなかったんじゃねーかな。グンジと付き合ってる時は、そんな浮気とかしてなかったもんな」
「してたよ」
「へ?」
 さらりと言った中戸さんに、入江先輩が二杯目を注いでいた手を止めた。
「浮気って言うのか分かんないけど、常に女の人はいたと思うよ」
 中戸さんは自分のもとばかりに、入江先輩に向かって紙コップを傾けながら、淡々とした調子で言った。この後バイト先の塾長のところに行くらしいのに、酒なんか飲んでいいのだろうか。
「いたと思うって、おまえ、いくら古川先輩がカッコ良かったって言ってもな、四六時中ところかまわずおまえとベタベタしてたような男に、どこの女がひっかかるっていうんだよ」
「だから学校外の人。おまえらみんな、古川先輩に遊ばれてたんだよ。あの人、わざと人前でひっついてきて、周りの反応見て面白がってただけだから。大学の外ではそんなでもなかったよ」
 あの人、という言い方に、入り難い何かを感じて、俺はふつふつと抑えがたいモノが湧いてくるのを感じた。気分を落ちつけようと、コーヒーを口にしてから尋ねる。
「ベタベタって?」
「人がいるところでも構わずに抱き合ったりキスしたりしてたんだよ、こいつらは。あの頃は部室開けるのにどれだけ勇気がいったか。中で何が起こってるか分かんなかったからな」
「何も起こってねーよ。そういう入江たちの反応が、先輩を喜ばせてたんじゃん」
「俺らのせいかよ!」
 入江先輩が喚いたところで、俺はコーヒーを飲み干し、空になった紙コップを机の上に置いた。
「やっぱ俺も酒もらっていいですか?」
「え、でも、俊平くんこの後……」
「おう、飲め」
 自分のことは棚に上げて心配そうな表情をする中戸さんを遮るようにして、入江先輩が俺の紙コップにつくば錦を注いでくれる。半分ほど注いでもらったところでストップをかけ、俺はそれをぐいっと飲み干した。味はさっぱり分からなかった。
 入江先輩は俺がストップをかけた時点で、中戸さんに向き直っていた。
「で、おまえはその悪趣味な先輩を忘れられなくて、観葉植物に『透』なんて名前を付けてるわけか。あの張り紙、俺も見たぞ」
 ぼんやりしかけた頭が、入江先輩の言葉にしゃっきりとする。
 『透』の正体。それはまさに、俺が今日ここに来た理由だった。入江先輩なら知っていると思ってここに来たのだが、中戸さんの前では訊けないと諦めていたのだ。それが、計らずも今までずっと当人の話を聞いていたとは。
「別に忘れられないから付けてるわけじゃない。古川先輩が名前付けろって言ったから、先輩の名前にしただけだ」
「どうだかな」
 入江先輩は吐き捨てるように言って、紙コップを呷った。
「少なくともおまえ、古川先輩がいる間は先輩一筋だったじゃねーか。今みたいに誰彼なく寝るなんてこと、なかったと思うがな」
 中戸さんは無言でコップに酒を注いでいる。俺は彼が机の上に置いた瓶を取って、もう一杯、今度はなみなみとコップに注いで身体に流し込んだ。
「で、なんなんだ、その観葉植物って。先輩のことだから芥子とか?」
「不幸の木」
「幸福の、じゃなくて?」
 入江先輩が目を丸くする。中戸さんは紙コップを口に付けたままうなずいた。
「幸福の木なんだけど、枯らしたら不幸になるって言うから。不幸の手紙と似てるだろ?」
「え、あれ、幸福の木なんですか? あんなでかいのに?」
 幸福の木って、もっと小ぢんまりとした出窓やカウンターに飾られるような愛らしい植物だと思っていた。『透』は俺と同じくらい身長がある。
「大きくもなるらしいよ。俺も先輩に聞いて知ったんだけど」
「へ……ぇ……」
「それで先輩の名前を付けた幸福の木を、おまえは後生大事に育ててるわけだ」
 入江先輩が突っかかる。少し、目の縁が赤くなっている。
「餞別だし、大事にしろってしつこいくらい念押しされたからな。それより入江、飲みすぎじゃないか? 俊平くんも大丈……」
 こちらを向いた中戸さんの表情が変わった。
 大丈夫。目の前が赤いのは酒のせいだ。喉や胸が焼けるのも、腹がボディブローを喰らったように気持ち悪いのも、ソファの座り心地に苛立ちを覚えるのも全部。別に俺は、嫉妬したり怒ったりしているわけじゃない。
「ちょっ、俊平くん!?」
「え、おい、蒔田!?」
 二人の声が、遠くに聞こえた。






 まぶたの裏がチカチカッと光った気がして目を開けると、天井で蛍光灯が瞬いていた。その眩しさに目を細めながら身を起こすと、入江先輩が咥え煙草で入り口付近に立っていた。今、電気を点けたところらしい。
「おう、目が覚めたか」
 入江先輩は口の端から煙を吐き出しながら、人懐こい笑みを浮かべた。
「おまえ、急に白目向いてひっくり返るから肝冷やしたぜ。慌ててグンジが抱き起こしたら目瞑ってぐーぐー鼾かいてたからホッとしたけど」
「最近あんま寝てなかったから……すいません。ご迷惑おかけしました」
 どうやら俺は、話の途中で寝入ってしまったらしい。そんなにしたくもなかった花札とウノがここへきて仇になるとは。いや、やっぱ相性の良くないものに手を出した報いか。
「や、まぁ、倒れたのがソファの上で良かったよ」
 ぺこりと頭を下げると、先輩は照れたように左手で頭を掻きながら、右手で煙草を口から外した。そして、吸いさしを指の間に挟んだまま、入り口脇にあった小型冷蔵庫を開けて金色の缶を取り出す。こちらに向けてほうるような格好をしてみせるところを見ると、投げるからキャッチしろということらしい。
「これ、二日酔いに効くからってグンジが置いてった」
「そういえば中戸さんは?」
 予想通り宙を飛んできた缶を受け取って、室内を見回す。埃っぽい部屋の中、彼の気配はどこにもなかった。
「バイト先の塾。用が済んだらここに戻ってくるってさ」
 そういえば、塾長に呼ばれたから早めに帰ったというようなことを言っていたなと思いながら、テレビのコマーシャルでよく目にしていた缶の蓋を開ける。
「入江先輩はバイトとか大丈夫だったんですか?」
「ああ、今日は何も用事がなかったから昼間から飲んでたんだ。で、それを知ってたグンジにおまえを頼まれたってわけ」
「それは……すいません」
「すまないと思うなら、うちのサークルに入れ」
「や、それはちょっと……」
 ここは変態の掃き溜めだ。しかもこの入江先輩、良い人に見えて変態の親玉なのだ。ついでに言うと、中戸さんは変態排出人。すでに片足突っ込んでいる気もするが、これ以上深く関わるのもどうかと思う。しかも。
「俺、仕送り少ないんで部費とか払えそうにないし」
 しょっちゅう飲み会を開いているような連中と同じように遊んでいたら、たちまち生活費が底をついてしまう。
「そういえば、蒔田はバイトとかいいのか?」
「今日は休みで……あっ、でも、四限!」
 入江先輩の言葉に慌てて携帯の時計を見ると、とっくに終わっている時間だった。
「っかーっ、しまった! 有川ノート取ってるかな」
「取ってたとしても、あまり期待しない方がいいだろな」
「ですよね」
 脳裏に、有川のミミズがのたくったような文字が浮かんだ。たぶん、入江先輩も同じものを想像したのだろう。
 俺は抗議のことは諦めて、金色の缶に口を付けた。コマーシャルを見て想像していたよりはまずくない。
「悪かったな。あんな話して」
「あんな話?」
「グンジの男の話。あいつに怒られたよ。蒔田はホモとかゲイとか嫌いだから、蒔田の
 前でそういう話すんなって。引いて出ていかれたらどうしてくれるんだってさ」
 入江先輩は俺の向かいに腰を下ろすと、紙コップに煙草の灰を落とした。
「俺らもそういう話しないように気を付けるからさ、あんま嫌わないでやってくれよな。あいつ、あれでもおまえのこと気に入ってるみたいだから」
「でも、中戸さんは俺に嫌われても平気なんじゃないっすか? 前にそんなこと言ってませんでしたっけ」
 たしか中戸さんは、俺に嫌われているんじゃないかと入江先輩たちからからかわれた時、「そうかもな」とあっさりした顔で言ってのけたという話ではなかったか。
「たしかに普段は嫌われても平気ってツラしてるけどな、グンジが目くじら立てて男関係のこと口止めするなんて珍しいんだよ。自分から話す奴でもないけど、いつもは人が耳を覆いたくなるようなこと暴露されても、涼しい顔して肯定も否定もしねーんだ。それこそ、人が引いて離れて行こうが罵って来ようが平気なツラしてな」
 なんとなく分かる気がした。当の本人が真相を口にしないからこそ、彼の無責任な噂はどこまでも広がり、かつ肥大しているのだ。普通なら当人が無視していれば消えて行くはずのそれが消えないのは、小さくとも火種はあるからなのだろうが。
「それに、あいつだって最初からあんなだったわけじゃないんだぜ」
 蒔田にはまた気持ちの悪い話になるかもしんねーけど、と前置きして、入江先輩は言葉を継いだ。
「少なくとも俺が知り合った頃は、誰とでも寝るような奴じゃなかった。おかしくなったのは、さっき話してた古川先輩がいなくなってからだ」








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