鏡写し 04

「栗城んちに泊まるのも、栗城がうちに遊びに来るのも、栗城が彼女と仲直りするまでのことです。俺、基本的に人とあんま深い交流ないし」
 栗城たちカップルが仲直りするとは限らないが、俺はビデオを睨みつけるようにしてそう言った。中戸さんはことの深刻さを知らないから、俺がそう言えば信じるだろう。
 俺が睨んでいたビデオに、中戸さんの手が伸びてきた。
「でも、気を遣ってる」
 パッケージを手に取って、自分の方へ引き寄せる。
「そんなこと……」
「俺、父親を殺したいと思ったことはないよ」
 中戸さんは、ビデオパッケージの裏面を見ながら言った。
「なっ、」
 なんで、と言いそうになった。俺の言動は、この人にあの映画を見せたくないという意図を察知させてしまうほど不審だったのだろうか。もちろん、見せたくなかったのはそういう意味ではないけれども。
 中戸さんはビデオから目線をあげて、柔和な笑みを浮かべた。
「どっちかっていうと、トム・リプレイみたく他の人になってみたい」
 トム・リプレイは、アラン・ドロン演じる『太陽がいっぱい』の主人公だ。貧乏だった彼は金持ちの御曹司を殺してしまい、一時ではあるが、そいつになりすますことに成功する。
 他人になりたいという中戸さんの気持ちは痛いほど分かる気がしたが、俺はわざと茶化すように言った。
「中戸さんが誰になりたいって言うんです? その容姿で他の人になりたいとか言ったら袋にされますよ」
「誰ってこともないけど……」
 中戸さんは言いながら頬杖をつき、ビールの缶に口をつけて、考える素振りをした。
 本当に、この人は自分でさえなければ誰でもいいのだろう。誰もが羨む容姿や成績を保持していても。誰もが大なり小なり悩みを抱えていると分かっていても。
「そこら辺の女子学生にでも成りすまして、俊平くんのお嫁さんの座でも狙おうかな」
 中戸さんの言い方は、ちょっとそこの屋台までラーメンでも食べて来ようかな、くらいの気軽さだった。だけど俺には、高級中華料理かフランス料理のフルコースを本場に食べに行って来ようかな、と言われたくらいの衝撃があり。
 とんでもない発言に、俺は片手でビールの缶を握りつぶしそうになった。
「そ、そんなのすぐ中戸さんだって分かりますよ!」
「どうかな。今日だってすぐには俺だって気付かなかったくせに」
「今度は絶対すぐ気が付きます! 今日はまだ経験不足で……」
 挑むような口ぶりに、思わず言い訳のような口調になる。すると中戸さんは、拗ねたように唇を尖らせた。
「前に三時間もデートしたのに」
「で……っ!」
 デートって。いや、したけど。でもあれは中戸さんの罰ゲームに付き合っただけで、正式なデートじゃない。てか、正式なデートってなんだ、正式なデートって。
「あああの時と今日とじゃ雰囲気全然違ったじゃないですか! あの時はこう可愛らしい感じで、今日はちょっと女らしい感じで……」
「服は男物だったんだけどね」
「顔と髪型の話です! とにかく、これでどっちの雰囲気にされてももう分かりますから! どんなに化けても無駄ですよ!」
 本当は顔だけの話しかもしれなかった。今は後ろ髪を上げていても、化粧をしていないせいか、ちゃんと男に、中戸さんに見える。
 俺はビールの缶を握りしめたまま捲し立て、でも、と口ごもった。
「でも……、俺、中戸さんは中戸さんのままがいいです」
 そりゃ女の姿でいる時の中戸さんは可愛いし綺麗だし、中戸さんが女なら、俺の苦悩だって今ほどじゃないだろうけど。でも、女装している時の中戸さんは、中戸さんであって中戸さんではないみたいで対応に困るのだ。どこかでポロリと、彼の望まぬ俺の本心が零れ落ちてしまいそうで。
「……ありがとう」
 心地よいアルトがうつむく俺に降って来た。
 俺はそこで何故「ありがとう」なのかが分からず、でも、突っ込むこともできなくて「いえ」とかなんとかもごもご言い、ビールの缶を捨てに行くふりをして立ち上がった。
 中戸さんの顔を見ることができなかった。そんなつもりはなかったのに、妙に恥ずかしいことを言ってしまった気がして、鼓動が速くなる。
 ビールだ、ビールのせいだと言い聞かせながらキッチンスペースへと身を翻すと、廊下との境にあるガラス扉に栗城の影がうつって見えた。
 俺と目の合った栗城が、控えめに扉を開けて手招きする。
「なんだよ。そっち暑いだろ。入って来いよ」
 缶を持ったまま近づいていくと、栗城は遠慮がちにダイニングへ足を踏み入れながら、湯気の出ている顔を赤らめて言った。
「俺、邪魔だったら帰るけど」






 しばらくして、栗城は彼女と仲直りしたらしい。バイト先に彼女を迎えに来ていたのは、彼女の姉の婚約者だったそうだ。バイトの時、長谷川さんが教えてくれた。
「上がり時間が遅いから、一人で帰るのは危ないってお姉さんが頼んでくれたんだって。それまではあの子、栗城くんに送ってもらってたから」
 最初はきちんと説明するつもりだったらしいが、栗城に糾問されて疑われていると思った彼女は、逆に弁解する気を失くしたらしい。そんな軽い女だと思われているのかと腹を立てたのだ。
 じゃあ何故めでたく元鞘に戻れたのかというと、栗城の方から謝ったからだ。自分はもっと大らかになるべきなんだろうと奴は言ったらしい。
 俺にはピンと来なかったけれど、長谷川さんが言うには、
「蒔田くん見てたら、男が迎えに来たくらいで目くじら立ててちゃいけないなと思ったんだって」
 なんで俺? と頭の中で首をひねっていたら、続く長谷川さんの言葉に洗っていた皿を取り落としそうになった。
「蒔田くん、すごい綺麗な子と付き合ってるんだって?」
「はぁ!?」
 幸い、皿は流しに張っていた水と泡の中に落ちたので、割れはしなかった。
「どういう話の展開!? てか、それ、何かの誤解……」
「相手が私だからって隠さなくていいって!」
 長谷川さんは布巾をもてあそびながら喋っていたのだが、それで俺の脇腹を叩いた。薄着のせいか、微妙に痛い。
 長谷川さんとは以前、付き合う一歩手前くらいまで行ったことがある。一歩手前と言っても、甘い雰囲気になったとか、どちらかが告白をしたとかいうことではない。俺が女に振られたという話をしていたら、それなら彼女になってあげようかと申し出てくれただけのことである。即座に断るなんて勿体無いことはできなかったが、ありがたく受けることもできなかった。なんやかんやあって、俺が食事の約束に行けなくなったのだ。
「彼女、めちゃくちゃもてる上、いろんな人と噂があるんだって? なのに蒔田くんは平然としてるって、栗城くん感心してたよ」
「栗城が?」
「あそこまでは無理だけど、蒔田の半分くらいは自分もどっしり構えてなきゃなって。自信があるんだろうとも言ってたけどねー」
 長谷川さんは、今度は肘で俺の脇腹を突いてくる。
「俺に彼女って、何かの間違いだって」
 長谷川さんとの食事の約束が反故になって以来、俺は女性と縁のない日々を送っている。
 俺はじりじりと横に逃げながら、皿洗いを続けた。
「それに俺、そんな大らかじゃないよ。栗城が言ったのって、俺じゃないんじゃないの?」
「えー、たしかに蒔田くんて言ったよ。あ、こうも言ってた。『蒔田があの部屋出るの止めたわけが分かった』って」
「なっ、」
 俺はやっと理解した。
 長谷川さんの言う「彼女」とは、まず間違いなく中戸さんのことだろう。
 思い起こしてみれば、うちに泊まりに来たあの日、栗城は途中から変だった。邪魔だったら帰るとか何とか、何わけわかんねーこと言ってんだろうと思っていたら、なんつー勘違いをしてるんだ、あいつは。
 性別を気にせず付き合ってしまう中戸さんと同じサークルにいる有川に比べて、割とまともな感覚をしていると信じていたのだが、やはりうちの大学の学生だ。相手が中戸さんなら男同士で付き合うのも普通のことと思っている気がする。でなければ、他校性の長谷川さんに簡単に言うはずがない。(「彼女」というのは、長谷川さんが女性だと思い込んで言っているだけだろう)
 どういう意味? と顔を覗きこんでくる長谷川さんに皿洗いを押し付け、俺は栗城の首を絞めるため、ホールに向かった。




 栗城の誤解が解けたのは一時間後のこと。そして。
「今度、私にも彼女見せてよね」
 長谷川さんにそう言われて青くなったのは、そのさらに一時間後のことだった。












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