メッセンジャー 01

 夏の夜の空気は、風もないのに押し寄せてくるようだ。手でつかめそうなほどどろりとした熱気は、花火大会の会場を見おろすような位置にあるバイパスにまで漂っている。
「ごめん」
 声と一緒に耳に吐息がかかって、俺はびくりと肩を震わせてしまった。汗をぬぐうふりで、声のした方とは反対側へ頭を寝かす。と、そちらにも自分のものではない腕があって、またしても動揺してしまった。その手には、鼻緒の切れた下駄がぶら下がっている。
 俺は、ひと気のないバイパスの歩道を、同居人の中戸さんを背負って歩いていた。
「俺やっぱ歩くよ」
「その下駄で? 無理でしょう。俺、鼻緒のつけ方なんて知らないし」
「俺も知らないけど。でも、重くない? あ、そうだ、替わろうか。俺が俊平くんの靴借りて、俊平くんを負んぶすればいいんだ」
「あのね、それじゃ俺が女の子に自分の靴履かせて背負ってもらってるダメ男に見えるじゃないですか」
「俺男だし、問題ないない」
「その格好で男だって思う人が何人いると思います?」
 答え。ゼロ。
 同居している俺だって、声を聞くまで女の子だと思っていたのだ。
 中戸さんは今日、女物の浴衣で花火大会に来ていた。浴衣に合わせて髪型やメイクもばっちり。どっからどう見ても、背の高い浴衣乙女。
 なんでも、サークルの賭麻雀で負った支払金額をまけてもらうために、こんなふざけた格好をしているらしい。
「でも重いでしょ?」
「全然。何度も言ってるでしょう。軽すぎるくらいですよ」
 男にしては、だが。
「だけど、さっきの坂道で疲れてるんじゃない? 息上がってるよ」
「だったらちょっと話しかけないでください」
 喋るのって結構体力を遣うのだ。その上に耳元で話されるもんだから、よけい息が上がるわけで。
 声さえ聞こえなければ、背中の温もりが中戸さんのものだなんて認識しなくて済むし、別人だと思い込めれば、妙な緊張もしないで済むのだ。腕や背中に当たる感触だけならまるきり男だし。もっとも、中戸さんじゃないそこいらの男だと思えば、背負って歩く気力も半減するかもしれないが。
 中戸さんは、しおらしく「ごめん」と呟いて口をつぐんだ。
 今日の中戸さんは、とことん不運に見舞われているらしい。サークルの罰ゲームで、慣れない女物の浴衣で花火大会に来ればヤバそうな連中に囲まれるし、酔っ払ったサークル仲間に絡まれているうちに終電だけでなく、花火大会用に出ていた臨時列車も逃した。挙句の果てに、徒歩で隣駅まで歩いていたら、下駄の鼻緒が切れてしまったのだ。切れて初めて俺は気付いたのだが、慣れない下駄のせいか、中戸さんの左足の人差し指には、血が滲んでいた。
 俺は彼とは別に、高校時代の同級生と花火大会に行っていたのだが、たまたま囲まれている彼に遭遇。浴衣の少女がまさか中戸さんとは思わず、正義感の強いツレに助けに入らされたのが運のツキ。中戸さんはほとんど一人で危機を脱したが、男に見えない状態の彼を一人にする気にはなれず、先に帰った友人と別れて行動を共にしている間に終電と臨時列車を逃し、ついにはバイパスに出る坂道の途中から、彼を背負って歩くハメになった。
 等間隔に並ぶ外灯で明るんだ夜空と、右側に聳える防音壁。人はもちろん、車の通りすらまばらなアスファルトの道に二人きり。聞こえるのは自分の鼓動と、それを跳ねさせている中戸さんの息づかいだけ。背中の重みは、たぶん俺が受け止めたいと思っている人のもので。
 ツキが『尽き』なのか『付き』のかは、判断の難しいところである。
 それにしても暑い。太陽などとっくに沈んでいるのに、まだアスファルトに熱がこもっているのか、地面を踏みしめる足が熱い。中戸さんと接している背中は、ぐっしょりと汗を掻いている。
 花火大会のあった最寄り駅には、もう空車のタクシーすらいなかった。仕方なく隣駅まで歩くことにしたのだが、やはり無謀だったかもしれない。
 隣駅に行くなら、このバイパスの歩道を行くのが一番の近道だと言ったのは、中戸さんのサークルの部長、入江先輩だ。バイパスに上がってすぐのトンネルを一つ抜けるだけだと彼は言った。しかし、すぐというのはチャリや原付で走行した場合のことだろう。少なくとも、入江先輩がこの道を徒歩で隣駅まで歩いたことがあるとは思えない。
 駅の北側にある高校に沿って延びている細い坂道を上ってバイパスに出ると、たしかにすぐそこにトンネルが迫っていた。坂の途中にあった高校の通学路になっているのか、ちょうど俺たちが上ってきたところから歩道もついていた。だから俺は、坂を上り切ったところにあった公衆電話でタクシーを呼ぶという考えを打ち消したのだ。駅前で空車のタクシーを一台も見なかったせいもある。
 しかし、歩けど歩けど、すぐそこで口を開けているトンネルに足を踏み入れることはなかなか叶わなかった。たった数百メートルの道のりが、人ひとり背負っているだけでこれほどまでに長いとは。トンネルも俺と同じ速度で後退しているのではないかと疑いたくなったものだ。
 それでもどうにかトンネルに追いついて足を踏み入れた時、バイパスに上って来て初めて、車の走行音が聞こえてきた。
 いつまでもトンネルにたどり着けなかった俺をあざ笑うように、あっけなくトンネルの中に吸い込まれてきたのは、軽トラックだった。今にも壊れるんじゃないかと思うようなひどい音を、これまた今にも崩れてくるんじゃないかと思うようなヒビだらけの暗いトンネルの壁に反響させている。軽トラはそれでもあっさりと俺たちを追い越したが、それからいくらも進まないで、がくんと停止した。
 まさか壊れたのかと呆気に取られて見ていたら、助手席から人が降りてきた。助けてくださいとか言われても、そんな気力は残ってないぞと思いながら身構える。
「どうかしたのかな」
 背中で中戸さんが呟いた。幾分緊張気味に聞こえたのは、俺が当惑していたからか。
 助手席から降りてきた人物は、小走りに俺たちの前までやって来た。高校生くらいの少年のようだ。
 俺は助けを請われるのかと思って、二、三歩後ずさった。自慢じゃないが、車のことなんてさっぱりだ。俺はまだ免許すら持っていない。
「あの、荷台で良かったらどうぞ。このトンネルの出口までなら送ってもいいって運転手が」
 彼はにっこり笑って軽トラを指し示した。
 やたらと親しげな笑みに、思わず中戸さんを振り返る。彼の知り合いじゃないかと思ったのだ。中戸さんは少年を凝視していたが、俺が顔を振り向けると、こっちに視線を落としてきた。何? と言うようにかすかに首をかしげる。
「別に怪しい者じゃありませんから」
 慌てたように少年が言った。
「って言うほど怪しく見えるかもしれないけど。俺は……」
 どうやら彼は、俺たちが不審に思っていると感じたらしい。俺は申し訳なくなって、「そういう意味じゃないんです」と彼を制した。
「すいません。変質者だとか思ったわけじゃなくて、その、知り合いだったかなとか……」
 言いながら、もう一度中戸さんを見る。この人は時々、自分が分からなくなって見知らぬ人物と関係を持ってしまうことのある困ったちゃんなのだ。まさかあんなお子様までたぶらかしてはいないと思うけど。
「違うと思いますけど」
 少年が言った。中戸さんも「知らない」と言うように、チリチリと簪に付いた鈴の音を撒き散らしながら、かぶりを振っている。
 俺は彼らを見比べながら考えた。申し出はありがたい。でも、中戸さんの「知らない」は当てにならない。もしこの少年なり運転手なりが、昔中戸さんと関係のあった人間だったら――。
 さすがに考えすぎかと思っていたら、中戸さんに耳打ちされた。
「せっかくだから乗せてもらおう。このトンネル、事故が多くてよく出るって聞いたことあるし」
 中戸さんはさらっと言ったが、俺は灯りが点いていてなお仄暗いトンネル内部に気付いてゾッとした。出るってもしかして。
 別にお化けや幽霊なんて信じてるわけじゃない。しかもここはバイパスだ。トンネルそのものは旧くても、道路はきれいに舗装されている。打ち捨てられたような旧道のトンネルならともかく、こんな交通量の多そうな場所が心霊スポットだなんて、誰が本気にするもんか。
 でも、交通量が多いからこそ事故が多発するわけで。
「じゃあ、お願いします」
 俺は、気付いたらそう言って頭を下げていた。












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