メッセンジャー 02

 入江先輩め、俺に何の恨みがあるというんだ。やっぱり中戸さんか。あの人も中戸さんに惚れてるのか。だから彼と一緒に帰る俺に、幽霊トンネルを通るよう仕向けたのか。
 運転席の後ろの窓に取りつけられた格子(中戸さんは鳥居と言っていた)にしがみつきながら、俺は懸命に荷台の床を凝視していた。
 幽霊の正体見たり枯れ尾花。
 あの句を詠んだ人物が見たのがススキだったなら、俺がさっき見たのは何なのか。壁のシミ? それともヒビ? はたまたその二つの融合か。
 とろとろと徐行に毛が生えたくらいのスピードで進む軽トラが憎らしい。俺たちに気を遣ってのことかもしれないが、俺はいっそ法定速度オーバーで走り抜けてもらいたかった。
 車が発進していくらも進まないうちに、それは進行方向左手から現れた。眼鏡をかけた中年の男の顔。それが胸像のようにトンネルの壁からぬっと伸びてきたのだ。中戸さん越しに血走った眼玉で睨みつけられた俺は、無様なほどうろたえて目を逸らした。そして片手で握っていた格子を両手で握りしめ、変なものを見ないように床を睨みつけているというわけなのだ。
「俊平くん? 酔ったの?」
 中戸さんが気遣わしげに、屈み込むようにしている俺を覗きこんでくる。その声音は至って平静で、俺より化け物の近くにいた人物のものとは思えなかった。やはり、俺の目の錯覚だったのだろう。
 しかし、大丈夫だと告げようと彼に顔を向けた俺は、トンネル中に響き渡るかというほどの大声を上げていた。
「うわあああああああ!!」
 なんと、中戸さんの向こうに見えていた中年男の胸像が、壁を離れ、こっちへぐっと近づいてきていたのだ。その青白い顔には怒りが湛えられているのか、深い皺と青筋が浮いている。
「な、中戸さ……」
「え?」
 後ろ、と指差そうとした俺に、中戸さんが「何?」と顔を寄せて来た時だった。怒りが爆発したかのように、中年男の眼鏡に皹が入り、粉々に砕け散った。中年のものとは思えないほど痩せ細った枯れ枝のような手が、中戸さんの肩に伸びる。
「来るなあああああ!!」
 俺は声の限りに叫んで、中戸さんに覆いかぶさった。中戸さんの簪が窓ガラスにぶつかって痛々しい音を立てる。咄嗟に右手で彼の後頭部を押さえ、俺はそのまま中戸さんを抱え込むようにしてうずくまった。
「ど、どしたの」
 顎の下からくぐもった声で中戸さんが訊いてくる。
「どうしたのって、見えないんですか!?」
 俺は右手を彼の後頭部と車体の間に挟んだまま、左手で背後の空間を指差した。すると今度は、中年男ではなく、セーラー服姿の少女が立っていた。立つと言っても、足先までは見えない。膝立ちのような姿勢で宙に浮いており、音もなくすーっとこちらに迫って来るのだ。そのくせ、長い髪の毛はバサバサと派手な音を立ててなびいている。
「見えないって、何が?」
「女の子ですよ! 髪が長くてセーラー服着てて……」
 中戸さんは俺の指先を追って彼女に目を向けたが、わけが分からないというようにきょとんとしている。本当に見えていないらしい。
「え、まさか、マジで幽霊!?」
 そうじゃなかったら今まで何だと思っていたのか自分でも分からないが、中戸さんが見えていないことで、却って自分が見えないはずのものを見ているのだと納得した。
 もう目の錯覚だなんて思えなかった。少女はすぐそこまで迫っており、長い髪の間からのぞく彼女の眼や口が埴輪のように空洞化していることも、その手がさっきの男と同じように骸骨のごとき細さに痩せさらばえていることも、俺の眼にははっきりと映っていたのだ。
「は? 幽霊?」
 中戸さんがそう言って身を乗り出そうとした時だ。少女の針金のような指が、中戸さんの喉をめがけて突き出されてきた。俺は咄嗟にそれを薙ぎ払い、少女に向かって足を蹴り出した。足は空を切り、ガンと荷台の床に落下する。しかし、痛いと顔を歪めたのも束の間、今度は荷台の床に這いつくばるようにしている黒いワンピースの女が、浴衣の裾から伸びた中戸さんの素足を今にも掴もうとしているのが見えて、俺はまたそちらに足を繰り出した。
「わっ、なに!?」
 俺の靴に裸足のつま先を蹴られそうになった中戸さんが、急いで足を引っ込める。けれど俺には謝る余裕もなかった。今度はまた、中戸さんの右肩に新たな手が延びてきていたのだ。それも一本や二本でなく、何本も。何人もの手が。俺はしゃにむに腕を振り回し、中戸さんの肩からそれらの手を振り払った。
「ちょっ、俊平くん!?」
 中戸さんが困惑したように俺を見るのが分かったが、弁解はもとより、構う余裕なんて俺にはなかった。
 男もいた、女もいた、俺らより若い奴も、かなり年配の奴もいた。頭のない奴や、手だけのものもあった。青白く折れそうな腕ばかりじゃない。太いのも浅黒いのもあった。でも、誰一人として俺を掴もうとする奴はいなかった。こいつらはみんな一様に、中戸さんを狙っているのだ。どうしてだかは分からない。自縛霊も、不細工よりは綺麗な方に惹かれるのか。
 とにかく、奴らはみんな、中戸さん一人を捕まえたがっているように見えた。助けを求めているようにも、絞め殺そうとしているようにも見える手が、次々に伸びてくる。
 ガタゴトという軽トラの走行音や、びょうびょうとうなる風の音に混じって、奴らの声まで聞こえてくるような気がする。
 ほしいようほしいよぉうほしいよおう。
 幻聴だ、風の音だと自分に言い聞かせても、声に合わせて奴らの口が開いたり閉じたりしているように見えて仕方がない。綺麗な器が欲しいのか、生きた魂が欲しいのか、それとも中戸さんという人間が欲しいのか。
 まさか、彼を捕まえて引きずり込もうとしている!?
 そう思い当たった瞬間、俺は中戸さんの頭ごと浴衣の肩を抱え込で、力いっぱい吼えていた。
「やめろ! 寄るなぁ! この人は絶対、連れて行かせないからなぁあああ!」






 どれくらい経っただろうか。トンネルを吹き抜ける風の音も、不気味な声もしなくなったと思ったら、軽トラが停まっていた。アイドリングの振動だけが、身体を震わせている。それでも俺は固く目を閉じたまま、奴らの気配を探って耳をそばだてた。中戸さんの頭を押さえこんでいるにもかかわらず、何故か彼の頭が持っていかれているんじゃないかと怖くて、目を開けることができなかった。
「あ、あの、すいませんけど、ここまでで……」
 だから突然耳に飛び込んできた遠慮がちな呼びかけにも、恐怖で震えあがってしまった。弱々しいふりをしたってだめだ。絶対に連れて行かせないとばかりに、中戸さんの頭を抱え直す。
 しかし、当の中戸さんが、もぞもぞと動き始めた。俺の右腕の中で、じりじりと頭を捩っている。そして少しすると、アルコールとたこ焼の匂いの濃厚な空気が俺の顔を撫でた。
「トンネルの出口に着いたから降りてくれって」
 ほぼ吐息だけでそう囁かれて目を開けると、思わぬ至近距離に、内緒話をするように口許に手を添えた中戸さんの顔があって。
「す、す、すすすいません!」
 俺は飛び起きると、どごどごと派手な音を立てて荷台の床を後ずさり、頭を下げた。さっきまで俺は、左手で助手席側の鳥居を持ち、中戸さんを車体に押し付けるような体勢で、彼の頭を抱いていたのだ。冷静になって思い出さなくても、胸には潰されて苦しげな彼の呼気が、右手にはスプレーで固められた髪の毛の感触がまだ残っている。
 ほとんど荷台の端まで下がっていた俺の後ろで、例の少年が後あおりを下ろしてくれていた。俺の様子がよほど奇異に映ったのだろう。彼は俺と視線が合うことがないよう、不自然に下を向いていた。
 罰が悪い思いをしながらも、礼を言って荷台を降りる。少年は、いえ、とか何とか言いながら、曖昧にうなずいた。
 中戸さんも、サークルの女性部員から借りた巾着と、鼻緒の切れた下駄を携えて俺の後に続いてくる。中戸さんが荷台の端に来るのを見計らって、俺は彼の方へ背を向けた。両手を後ろに突き出して、背中に乗るように合図をする。しかし、中戸さんはなかなか乗って来ようとはしなかった。振り向けば、困ったようにうつむいている。さすがに見ず知らずの人に今の格好で男と知られるのは嫌なのだろう。乗る時にも顔を少年からは隠すような素振りをしていたが、今も声には出さないように、「でも」と口を動かしていた。
 視界の端に、訝しげな少年の視線を感じて、俺は声を荒げた。
「さっさとしてください!」
 言い過ぎただろうか。もう一度背を向けて、弁解するように続ける。
「裸足で歩いて怪我でもされたら、俺が後味悪いんです」
 中戸さんは観念したのか、嗅ぎ慣れたフレグランスの香と一緒に、背中にふわりと乗って来た。
「あの、助かりました。ありがとうございました」
 後あおりを上げている少年に、改めて礼を言う。
「いや、俺は別に何も。運転手が乗せてやれって言ったから」
 排気ガスで薄汚れたナトリウムランプの下、少年はぎこちない笑みを浮かべてそう言うと、軽トラの前方へ進んで助手席の窓を軽く叩いた。少しして、ウインドウが下りてくる。
 中では、分厚いフレームの眼鏡を掛けた男が運転席からこちらへ身体を伸ばしていた。少年に不審に思われているらしい俺が言うのもなんだが、俺なんかよりよほど胡散臭く見える男だ。分厚い眼鏡のフレームは、今流行りのものではなく、瓶底レンズがはまっていそうな昔ながらの黒縁だった。レンズに薄暗いトンネルの灯りが反射して、オレンジに光っている。
「別に礼なんて良かったのに」
 頭を下げると、面倒くさそうに男が言った。値踏みでもするように、俺たちを眺めまわしている。
「でもその、とても助かったんで」
 なんとなく気圧されて、視線を彷徨わせながらしどろもどろに応えると、男はとんでもないことを言ってきた。
「ふーん、で、あんたら付き合ってんの?」
「えっ、や、違います!! この人はただの同居人で、」
 中戸さんの格好と今の状況を鑑みれば誤解されても仕方なかったのだが、俺は面食らって、首が千切れるんじゃないかと思うほどかぶりを振って否定した。後ろで中戸さんも首を横に振っているのが分かった。
「ふーん、まだ付き合ってはいないのか」
「まだって別にこの先も……」
 哀しい哉、そんな予定は永遠にない。
「ま、いいや」
 男は俺を遮るようにそう言うと、助手席の窓枠に手を掛け、こちらへ身を乗り出してきた。レンズの奥の瞳が見えるほどの至近距離に、男の顔が迫る。何故か背筋がぞわぞわした。
「だったらきみ、深入りしないうちに離れた方がいいよ」
「え、」
「引き返せるうちに引き返した方がいい」
 男の口許には嘲るような笑みが張り付いていたが、眼は笑っていなかった。むしろ、真摯に訴えかけてくるようで、俺はたじろいだ。
 何を言ってるんだ、この人は。中戸さんの正体まではバレていないだろうが、俺の気持ちは一目瞭然で、振られるのも目に見えているからやめておけというのだろうか。
 羞恥と混乱で動けなくなった俺に、男の顔がさらに近付いてくる。間近で見る男は意外と整った顔立ちをしていたが、彼はその顔をわざと歪めるように口の左端だけを持ち上げ、引き攣ったような笑みを浮かべた。
「でないときみ、いつか喰われるよ」
 首の後ろから背中にかけて、ザアーッと冷たい物が駆け降りた。途端、
「先輩! なんてこと言うんですか!」
 男の頭ががくんと揺れた。少年が、俺の横から男の頭を叩いたのだ。
「だっ! おま、目上の者に向かってなんつーことをっ、」
「も、すいません。この人、人をからかうのが趣味なんです。真に受けなくていいですから」
 少年は男を無視して、弁解するように言いながら、俺たちをトンネルの外へと押し出す。彼のおかげか、俺はわけのわからない緊張から解放され、ふらふらしながらも歩き出せた。
「じゃ、気を付けて。お幸せに」
 バイパスと並行に走っている歩行者用の下り坂に差し掛かったところで振り向くと、すでにあの男は頭を引っ込めており、少年だけが手を振っていた。












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