メッセンジャー 03

 自転車がやっと離合できるくらいの細い道を下って行くと、すぐに駅舎の灯りが見えた。終電は行ってしまっているが、タクシーは停まっているかもしれない。道の繋がっていた北側には姿がなかったので、俺たちは線路を跨ぐようにして建っている小さな橋上駅舎を超えて、ロータリーのある南側へ出た。途中、中戸さんがどうしてもと言うので、駅の階段だけ歩いてもらった。
 ロータリーにタクシーの姿はなかったが、タクシー会社に電話したら、十分か十五分くらいで車を回せるということだった。
「今日はごめん」
 階段を下りたところに設えられた、ペンキのはげかけたベンチに腰掛けて、中戸さんがポカリを差し出してきた。俺が電話している間に、ベンチの横の自販機で買ってくれていたのだ。
「とことん迷惑掛けちゃったね。タクシー代は払うよ」
「いや、でも、俺も迷惑掛けたし……」
 俺はポカリを受け取って、中戸さんから顔を逸らした。
 トンネルで見たものが何だったのか、正確なところは分からない。あの時は幽霊に違いないと思ったけれど、冷静に考えれば、あれは自己暗示のようなものだったんじゃないかという気がする。トンネルに入る直前に、中戸さんに「出る」と言われたことと、道を教えてくれた入江先輩が惚れているらしい中戸さんと密着していた後ろめたさから、幻覚を見てしまったと考える方が現実的だ。
 それなのに俺は、幻覚に慄き、取り乱しまくり、後先考えずに中戸さんを押さえつけていた。軽トラから降りた時点では気が立っていたから背負うことはできたけど、今正面から顔を見るのは、苦手な英語で満点を取るくらい難易度が高い。もちろん、隣に座ることもできていない。俺は、中戸さんの座るベンチの前に、それこそ幽霊のようにふらふらと立っていた。
「迷惑って?」
 自分はウーロン茶のボトルを開けながら、中戸さんが不思議そうに見上げてくる。
「え、あの、その、さっき軽トラで……」
 頼むから言わせないでくださいとばかりに、俺は先を濁した。思いだしただけで、鼻先に中戸さんのフレグランスの香が蘇ってきて、羞恥と申し訳なさで消えてしまいたくなるのに、あの醜態を言葉にするなんて、俺に恥死しろとでもいうのか。
 もちろん、そんなつもりではなかったであろう中戸さんは、思い出したように「ああ」と微笑んだ。
「俊平くんて、霊感あったんだね。すごいや。俺、何も見えなかったのに」
「俺だって霊感なんてないですよ!」
 心霊現象に興味でもあるのか、感心したように言われて、俺は慌てて否定した。
「だから、俺の勘違いっていうか、何かを見間違えてパニクっちゃったんじゃないかと思うんですよね」
「そうなの? その割には、はっきり見えてたっぽいけど」
「あの時はたしかに見えた気がしたんです。そりゃもううじゃうじゃと。でも俺、今まで幽霊なんて見たことないし、第一、そんなことあるわけないし。そんなのであんな、あの、蹴りそうになったり叩いたりして、すいませんでした!」
 俺は立ったまま頭を下げた。一番謝りたかったのは抱きしめてしまったことだったが、「抱きしめたりして」とはとても言えなかった。あの時にはやましい気持ちはなかったが、普段彼に対してそういう欲求めいたものがあるだけに、下手に口にして変に思われるのも怖かった。
「別に謝ることないよ」
 腰を折ったまま顔を上げられずにいると、中戸さんが頭を逆さにしてにゅっと覗きこんできた。驚いて仰け反ると、彼はにこっと笑って頭を戻した。
 座ったら? とベンチを叩かれ、断るのも不自然な気がして、中戸さんの左側におずおずと腰を下ろす。
 中戸さんは、ウーロン茶を口に運んでから言った。
「そりゃ、急に空を蹴ったり叫んだりするからびっくりはしたけど。でも、幻覚でも何でも、何かから守ってくれようとしてたんでしょう?」
「え、な、んで……」
 中戸さんにつられてポカリを飲もうとしていた俺は、目を剥いた。あの不気味な奴らを目にしていないはずなのに、なんで分かったんだ、この人。
 途切れた俺の疑問を察したのか、中戸さんはウーロン茶のペットボトルに蓋をし、手の中で転がしながら言った。
「何が起こってるのかは分からなかったけど、『この人は連れて行かせない』って言ってたから、そうなのかなって」
 うわああああああ。なんてこと言ったんだ、俺!
「そ、それは! 気味の悪い手がたくさん見えて! そいつら、なんでか中戸さんひとりを引きずり込もうとしてるみたいだったから!」
 俺はポカリのペットボトルを握りしめて弁解した。弁解になっていない気もしたが、何か言わないと誤解されると思ったのだ。
「俺を? 俊平くんじゃなくて?」
「はい。それで俺、怖くなって……」
 この気持ちを知られるくらいなら、臆病だと思われた方がまだいい。普段はともかく、あの時の俺は清廉潔白だ。いや、普段でもきっと弁解するけど。
 羞恥でよけいに身体が暑くなっていた俺は、ポカリをがぶ飲みした。すると、しばらく黙っていた中戸さんが、クツクツと笑い始めた。
「どうせ俺はチキンですよ」
 俺は、ペットボトルを口から外してむくれた。臆病だと思われてもいいと思ったはずなのに、実際に笑われるとムッときたのだ。
 中戸さんはなおも笑いながら、「違うよ」と首を振った。
「どこが違うんですか。ひどい臆病者だと思って笑ってるんでしょう」
「違うって。俊平くん、お人好しすぎだよ。オバケが俺だけ引っ張ろうとしてたんなら、俺のいない方へ逃げれば良かったのに」
「あ、」
 これは、臆病者というよりも、阿呆だと思われて笑われていたのか。
「すいませんね、頭の回転が鈍くて」
「誰もそんなこと言ってないじゃん。俺は嬉しかったよ。本物の女の子なら好きになっちゃうんじゃないかなぁ」
 そう言う贋物の女の子、中戸さんの髪(というかカツラ?)は、すっかりセットが崩れており、結い上げた髪の間から簪が落ちかけている。軽トラに乗る時にはまだかっちり九十度になっていた浴衣の襟元も、くたびれたように前が開きかけていた。
 それは紛れもなく、軽トラの上で俺が頭を抱え込んだり浴衣の肩を乱雑に払ったりしたせいで。
 俺は、中戸さんの頭に手を伸ばし、簪に触れた。リリ、と涼しげな音がする。
「おべんちゃらはいいですよ。俺、こんなボロボロにしちゃって。どうせ幻覚だし、逃げてた方が中戸さんにとっても良かったはずですから」
 セットはどうにもできないけど、せめて簪を挿し直してやろうと思ったのだが、なかなかうまくいかない。もたついているうちに、中戸さんの手が伸びて来た。
「そんなことないよ。本当に嬉しかったんだ」
 彼はざっくりと団子状の髪の塊に簪を押し込むと、顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「ありがとう」
「い、いえ……」
 青白い蛍光灯の下、その柔らかな笑顔は、俺の影に入ってしまうほど近くにあって。
「……俺の顔、なんか付いてる?」
 さっきよりも間近になった笑顔に、不思議そうな色が灯る。大きな瞳が、ぱちくりと瞬いた。
「あ、えっと、化粧! が、その、剥げかけてるなって」
 ――俺今、何しようとしてたよ?
 気がつくと俺は、中戸さんに見入ってしまっていた。彼が女の子の姿をしていたせいだろうか。いつもなら間違いなく顔など見れなくなっているはずなのに、左頬に手を添え、吸い込まれるように顔を寄せて。
 俺はさっと身を離して取り繕うように言ったが、変に思われたに違いない。ナニをしようとしていたと思われても仕方のない体勢だったのだ。それに、笑顔に魅入られて正面から目が離せなくなるなんて、中戸さんに告ったいつかの高校生と同じじゃないか。
 しかし、中戸さんは不審に思った様子もなく、自分の顔を手の甲で擦って、
「本当だ。ファンデーションほとんど残ってないや。俊平くんのTシャツに付いてるかも。ほら、肩のとこ」
「え、あぁ!?」
 中戸さんに引っ張られた白いTシャツの肩口は、薄っすらと肌色に染まっていた。
「あーあ、ごめんな」
「いや、自業自得ですから」
 俺が中戸さんの頭を自分に押し付けたのだ。彼は何も悪くない。
 中戸さんは自らの膝を台替わりに頬杖をついて、漂白剤あったかななどとぶつぶつ言っていたが、はっとしたように頭を上げた。
「あー! だからさっきの人、俺が男だって分かったのか」
 これだけ化粧落ちてればなー、と中戸さんは納得したように続けたが、俺から見れば、まだ化けの皮が剥がれるところまではいっていなかった。喋らなければ、まったくの別人と隣り合っているような気分になりそうだ。いつ剃ったのか、間近で見ても髭すら見えなかった。
「さっきのって、どっちですか」
 俺はさっきの中戸さんと同じような体勢で頬杖をついて、ポカリに口を付けた。体勢が体勢なので、飲み込みにくい。
 ロータリーの中央に建っている時計は、もう日付が変わっている。
「運転してた方。俊平くんに、喰われるから俺と離れた方がいいって言ってたじゃん」
「え、まさか喰われるってそういう意味……」
 ぎょっとして顔を上げる。「喰われる」というのは、てっきりあのトンネルの壁から出てきた気味の悪い奴らにだと思っていたのだ。しかし考えてみれば、連中をあの男も見ていたとは限らない。というか、俺の幻覚だったのだから、見ているわけがない。
「じゃないの? 喰い物にされるって意味なら、ああいう言い方しないだろうし」
 中戸さんは他人事のようにさらっと言って、にこっと可愛らしい笑みを浮かべた。
「あ、でも、安心して。この前みたいに酔っ払って俊平くん襲ったりしないように気を付けるから」
「当たり前です!!」
 顔が熱くなるのが分かって、俺が噛みつくように怒鳴った時、エンジン音と共に車のランプが近付いてきた。
「あんなのただの嫌がらせに決まってるでしょう。中戸さんを本物の女性と間違えて、俺に嫉妬したんですよ。だから俺に喰われるだの離れろだの言ったんでしょう」
 俺は立ち上がって、飲み干したポカリのペットボトルを自販機横のゴミ箱に放ると、地面に置かれていた鼻緒の切れた下駄を左手に持ち、中戸さんに向かって右手を差し出した。
 中戸さんは奇妙な表情で俺の手を見つめていたが、俺の背後にタクシーが停まってドアが開くと、ぷっと小さく笑ってお茶で冷えた手を載せて来た。
「俺が本物の女に見えるとしたら、俊平くんがこんなことするからだよ」
 しまったと思った時には遅かった。右手に微かな重みがかかって、俺は反射的にぐっとその手を引いた。
 中戸さんが、俺に寄り添うように立ち上がる。タクシーの中から運転手が、「電話くれた蒔田さん?」と声を掛けてくる。
 俺は、半分うわの空で中戸さんを先に乗せ、運ちゃんの問い掛けに応じながら、あの胡散臭い眼鏡男の言葉を反芻していた。
 ――引き返せるうちに引き返した方がいい。
 あの男がどういうつもりで言ったのかは分からない。ただの冷やかしだったのか、それとも、本当に第六感のようなものがあって、何か感じるところがあったのか。でも。
 明りの消えた商店と、途方に暮れたような間抜け面をした俺の顔が、車窓に映し出されている。俺の向こうには、少々歪な髪形をした中戸さん。ややうつむき加減に座っている彼の表情は見えないが、その手は冷房の効きすぎたタクシーの中でも、俺の体温で温まりつつあった。




 タクシーに乗った今も手を離せないでいる俺は、とっくに引き返せないところまで来ているのかもしれない。








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