神様 01

「コーヒー飲みたい」
 椅子の上に両ひざを立て、その間からダイニングテーブルに頭をもたせかけて、中戸さんが呟く。伸び放題の髪の毛がテーブルに散って、ちょっと『リング』の貞子みたいだ。もちろん、あんなに長さはないが。両手はだらりと椅子の下。
 その姿と声はとても憐れだったが、ここで許可するわけにはいかない。俺の見ていないところではどうするか分からないのだから、尚更だ。滅多に我が侭を言わない中戸さんの願いを断るのはしのびないが、これは彼のためなのだ。
 俺は心を鬼にすると、彼の前に粥とぬるめの麦茶を置いて、ささやかとも言える願いを一蹴した。
「ダメです! ほら、さっさと支度して学校行ってください! 今日は絶対研究室に行かせるよう、鹿間先輩にキツく言われてんですから」
「やーん。コーヒー飲まないと目ぇ覚めない」
「ダメですってば! 飲んだらまた吐き気もよおすでしょ!」
「えーん。俊平くんの鬼ー」
「誰が鬼ですか! 胃炎の同居人のために、このクソ暑い中お粥まで作って、こんな神様みたいな後輩、他にいますか!」
「じゃあかみさま、コーヒーのまして」
 中戸さんは顔を上げると、潤んだ瞳で懇願してきた。その縋るような表情と、幾分舌っ足らずな物言いに、ちょっとどきっとする。が、ここで負けるわけにはいかない。
「ダメです」
 俺はすげなく答えた。びええええ、と中戸さんが情けない声を上げて嘘泣きをする。
 ああ、神様、どっかにいるなら、この人なんとかしてください。






 カフェイン中毒気味な中戸さんに、コーヒー禁止令が出た。
 薄着になるにつれ、この人、こんなに痩せてただろうかと訝しく思ってはいた。セーター越しとはいえ、冬場に掴んだ肩は、見た目ほど華奢ではなかったはずだ。きっと着痩せするタイプだったのだろう。それが最近では、ランニングで歩いていても、厚着していた時の印象と変わらない。飛び出た肩甲骨に、深い陰影を刻む鎖骨。肋骨だって、触れればTシャツ越しにでも数えられそうなほどだ。
 それでも、中戸さんの実家から送られてきた夏野菜を、俺が適当に調理して食卓に並べれば、美味そうに食べてくれていた。だから、最近痩せました? という俺の問いに、ちょっと夏バテかも、とのんびり答えられた時には、そうなのだろうと納得していた。
 しかし、中戸さん愛用のジーンズが目に見えてガボガボになり、夏の初めに買ったらしいTシャツまでもがいわゆる『彼シャツ』もどきになっているのを見るにつけ、俺もようやく何かがおかしいと思い始めた。
 そして気づいてしまったのだ。彼が嘔吐していることに。
 その前日は、二人ともバイトの始まりが遅かったので、夕飯を一緒に食べた。中戸さんの実家から送られてきていた野菜がまだあったので、焼きなすとピーマンの味噌炒めを作り、前日の残りのカレーと一緒に出したのだ。中戸さんは寝起きだったが、皿によそってやった分はペロリと平らげていた。
 この日に限らず、俺が何か作った時に、中戸さんが食べ残すことはほとんどない。だから夏バテと言っても、食欲が湧かないだけで、食べて食べれないことはないのだろうと思い、何か作っては、中戸さんにも食べさせていたのだ。
 ところが。
 明け方にバイトから帰って用を足しに行こうとしたら、トイレの中から嗚咽のようなものが聞こえてくるではないか。帰宅した時、玄関に見覚えのない靴などなかったから、中にいるのは同居人である中戸さん以外にありえない。
 俺は最初、中戸さんが泣いているのかと思って、声を掛けるのを躊躇した。しかし、普通に考えれば、泣くなら自室で泣けばいいのだ。この部屋は公共の場ではないのだから、何もトイレに隠れて泣く必要はない。
「あ、俊平くん帰ってたんだ。おかえり」
 ちょっと疲れた顔で出てきた中戸さんの後にトイレに入ると、案の定、彼が振りまいた消臭剤の匂いに混じって、ほんのりカレーの匂いがした。
 で、そのまま部屋に乗り込んで問い詰めると、中戸さんは心底申し訳なさそうに白状したのだ。かれこれ一週間ほど前から食べた物のほとんどを吐き戻しており、今夜は吐気に腹痛も加わってほとんど寝ていないのだと。
 そこで陽が高くなってから、嫌がる彼を病院へ強制連行したところ、二時間に及ぶ栄養剤と吐き気止めの点滴の上、ドクターに出されたのが、熱が下がるまでの絶食とコーヒー及びアルコール類の禁止令。
 中戸さんは急性胃腸炎だった。












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