神様 02

 「泣いても喚いてもダメなものはダメ! 何もずっとってわけじゃないんだから。今きちんと治しとかないと、後で困るでしょう」
「うう」
 正論の前に、中戸さんがたじろぐ。
「分かったらお粥で我慢してください」
 言うだけ言って、俺は自分の分の粥を食べ始めた。観念したのか、中戸さんももそもそと食べ始める。しかし、絶食明けから二日経っても、中戸さんの食は進まない。もともと夏バテもあったのか、食欲自体は六月末頃からなくなっていたらしい。それでも時間をかけて、ようやく茶碗半分くらいのお粥を食べ終えると、また両腕をテーブルに投げ出して突っ伏してしまった。
 そんな彼を、俺は洗い物をしながら叱咤する。
「あー、もう、しんどいのは分かるけど、今日は大学行ってください! 今日中戸さんを大学に連れてかないと、俺が鹿間先輩に怒られるんですってば! ほんとは一昨日から来させろって言われてたの、今日まで待ってもらってるんですから!」
 鹿間先輩は、中戸さんのゼミ仲間だ。中戸さんを病院に強制連行した日、用事があって大学に行くと、彼が血眼になって中戸さんを捜していた。なんでも、盆明けの合宿で共同発表する論文が、まだ出来ていないという。俺は、中戸さんが体調を崩していることを話し、すぐにでも連れて来いと息巻く鹿間先輩に、三日待ってくれと頼んだのだった。
「盆明けまでに、論文完成させないといけないんでしょう!?」
 本当は俺だって、完全に回復するまでゆっくり療養させてやりたい。でも、それで困るのは中戸さん自身なのだ。胃が治った途端に徹夜続きになったのでは、またすぐ別の病気にならないとも限らない。急性胃炎はストレスが原因になるとも聞くから、できるだけ早く論文を済ませて、ひとつでも気がかりを減らして欲しいという願いもあった。
 しかし、後輩の心先輩知らずとでも言おうか、中戸さんは突っ伏したままひとこと。
「コーヒー飲ませてくれたら行く」
「だぁー! またそれを言いますか! 胃炎が慢性化して、そのうち胃潰瘍になって、更に胃癌にでもなったらどうすんですか! 若いと癌の進行速いんですからね。まだ死ぬには早いでしょ」
「コーヒー飲めないんだったら、死んだ方がマシ」
 この野郎。
「治ったらいくらでも飲んでいいし、他のことなら何でもしてあげますから、とにかく今は、支度して大学行ってください! 盆に入ったら大学も閉鎖されるから、研究室にも入れなくなるでしょう! 盆明けっていったらもう十日もないじゃないですか!」
 そこまで言ってはっとした。そうだ、盆が近いということは、ストレスの原因はもしかして……。
「中戸さん、物が食べれなくなったのってひょっとして……」
 俺は水道の水を止めて、抑えた声を掛けた。中戸さんは、テーブル上に投げ出すようにした腕に、顔を埋めている。しかし、俺がその先を言うのをためらっているうちに、相手はふざけた要求をしてきた。
「じゃあ、ちゅーして」
「はい?」
「ちゅーしてくれたら、コーヒー我慢してガッコ行く」
 ああ、神様。この人マジで、なんとかしてください。
 中戸さんはれっきとした日本人だけど、男だろうが女だろうが、ちゅーくらい平気な人だ。その先だって構わないことが多い。だから時々、それを利用して、構う人間への脅しに使う。中戸さんは俺をノーマルだと思っているから、あんな要求をすれば俺が嫌がって折れるとでも考えたのだろう。でも、中戸さんは鈍感で、彼が自分に気のない相手だと思い込んでいても、そうでない場合もある。だから、俺としてはそういう脅迫はやめていただきたいのだが。
 人がどんな気持ちを抱えてるか分かってないから、そういう脅しができるんだよな。いざ俺にされたら困るくせに。まぁ、隠してるのは俺なんだけど。
 でも、こうなったらもう知らない。それに、そういう脅しが通用しないこともあると分からせるにはいい機会だ。
 俺はため息をついて、流し台に掛けていたタオルで手を拭いた。
「……分かりました」
 極力抑えた声で言い、カウンターとテーブルをまわって、中戸さんの隣へ行く。平静なふりをして右肩に手を置くと、中戸さんは腕の中から目だけ動かして、髪の毛の間から俺を見上げた。
「へ?」
「どこですか? 額ですか? 頬ですか? それともこのまま後頭部にしましょうか?」
 顔が赤くなっているのを悟られないよう、こちらを覗いている目ではなく、耳に向って囁く。すると戸さんは、耳を隠すように、心持ち肩をすくませた。
「え、っと、くち?」
 中戸さん的にはハードルを上げたつもりなのだろう。が、これで俺が折れると思ったら大間違いだ。
「だったらほら、さっさと顔上げてください」
 内心、ファーストキスの時なんかより断然緊張していたが、俺はなんでもないことのように言って肩に置いた手に力を込めた。が、力づくで振り向かせることはできなかった。あまりに細くなってしまった肩は、無理に動かせば壊れてしまいそうで怖くなったのだ。
 しかし、中戸さんは逃げ腰になった。完全に顔を伏せ、投げ出していた両腕で頭部を囲い、そのままじりじりと俺のいないカウンター側へずれていく。
「や、あの、いいです。冗談です」
 俺が肩から手を離すと、中戸さんはやっと頭を上げて、腰を浮かせた。ただし、顔は俺から逸らせたまま。
「そんなことしてもらわなくても、ちゃんとガッコ行きます。ごめんなさい」
 俺は、半ば予想通りの反応に少々ムカつきつつ、そろそろと椅子から立ち上がって後退していく中戸さんの両頬を捉えると、無理矢理上向かせた。頑なに俺を見ようとしない眼を覗き込んで、問い詰める。
「コーヒーも、きっちり治るまで我慢していただけますね!?」
「……は、い。我慢します」
「絶対ですよ!?」
「わ、分かったから! 絶対飲まないって約束するからー!」
「……よろしい」
 俺が解放すると、中戸さんは逃げるように自室へ駆け込んでいった。






 ……危なかった。
 中戸さんの部屋の戸が閉まると同時に、俺はその場にへたり込んだ。
 さっきの顔は、俺の怒りを鎮めて、あれ以上の行動を踏みとどまらせる作戦だったのだろうか。だとしたら逆効果だ。結果的にはなんとか踏みとどまれたものの、あんな顔されたら、そんなつもりがなくてもおかしくなってしまう。
 無理矢理こちらを向かせた中戸さんの顔は真っ赤で、眼には涙さえ浮かべていた。
 でも、あれってやっぱり、それほど嫌ってことだったんだろう。だいたい、ちゅーされるより、飲めないなら死んだ方がマシと言い切るほどのコーヒーを我慢することを取るってことは、つまり、俺とキスするより死んだ方がマシってことで。
 そりゃこんなになるまで気付けなかった俺も悪いけど。




 ああ神様。
 それって、あまりにも俺が可哀想すぎやしませんか?












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