和訳 01

 第二外国語として選択していたドイツ語の追試を受けることになった俺は、同じく追試組になった有川と共に、同居人の中戸さんに教えを乞うことにした。誰あろう、ドイツ語の講師である通称シュッケツに提案されたのだ。
「蒔田くん、きみの同居人はこの講義もトップクラスの成績でしたよ。彼に教えてもらおうとは思わないのですか?」
 俺は、シュッケツに言われたとおりにするのは癪だったのだが、有川はその案に目を輝かせた。そして中戸さんは、二つ返事でオーケーしてくれた。
 しかし、俺たちの答案用紙を見た中戸さんは、いつもの笑顔のまま、小さく溜息を吐いた。掃き出しから落ちてくる微かな陽射しまで、翳りはじめるような心地がする。
「で、二人とも、どこら辺まで理解してるわけ?」
「とりあえず、グーテンモルゲン、グーテンターク、グーテンナハトくらいは・・・・・・」
「俺、もうちょっと解るぜ。これとか」
 有川があまり折り目のついていないテキストの一文を指差す。
「これ、あの女装デートの条件に書き忘れたやつなんだよな。グンジ先輩が俊平にこれを言わせるっていう条件があったんですよ。携帯のムービーで撮って来いって発案者の野間先輩に言われてたんだけど、俺、すっかり忘れてて。だから野間先輩の支払い分、徴収できてないんすよね」
「だから計算よりちょっと少なかったのか」
 野間先輩にずいぶん責められたのだろう。有川が渋い表情で言い、中戸さんは算盤でもはじくように指を動かせて頷いた。
 女装デートとは、サークルの賭け麻雀に大敗した中戸さんが、負け金返済を免れ、なお且つ負け金の倍額を部員たちからせしめるためにやった罰ゲームのようなもので、俺は家賃半額の言葉に釣られてそのデートに協力した。負けたのは中戸さんなので、もちろん女装していたのは彼なのだが、そのデートにはいろいろと変態じみた条件があって、協力者の俺まで恥ずかしい思いをさせられたという、金銭的においしいながらも傍迷惑な企画である。でも、俺がクリアした条件はまだ易しい方で、すごい金額が手に入るというオプションの条件には、大声で言えば公然わいせつ罪で捕まりそうなことがつらつらと並べられていた。
 それにしても、有川たちのサークルの野間先輩といえば、一見、ちょっと取り澄ました感じの女の先輩で、あのサークルの変態企画に進んで参加するような人には見えなかったのだが。やはりあの変態一味の一員には違いなかったか。
「ちょうどいいから俊平、今言っちゃえよ。したら、野間先輩の分も徴収してきてやるから。肉食おーぜ、肉」
 有川がニヤニヤしながら携帯を構えた。
「ほら、グンジ先輩、俊平に促して」
「んじゃ俊平くん、これの和訳を俺の方を向いて声に出して言ってみようか」
 さすがは家庭教師のバイトをしているだけのことはある。中戸さんは堂に入ったような先生口調で俺を促した。が、有川のお気には召さなかったらしい。
「グンジ先輩、それじゃ色気も素っ気もないでしょう! 罰ゲームの意味ないじゃないですか!」
「言わせればいいんだから、何でもいいだろ。大丈夫。野間さんは、カラオケの歌詞で言わせてもオッケーだった人だから、色気も素っ気も求めてないよ。どういう手を使って言わせたかの方を楽しみにしてんじゃない?」
 だからこういう方法の方が野間さん的にはツボだろうと中戸さんは請合った。
 しかし。
「Ichは『私』で、dichって何でしたっけ? 犬?」
 俺に即席で和訳など、土台無理な話だった。






 時間がないので覚えるものは後回しにして、とりあえずテストの答案について解説してもらった。俺にはさっぱりで早々に別のことに切り替えられたが、有川にはそこまででもないらしい。
「ドイツ語は関代の省略はできないんだよ。テキストにでっかく書いてあったろ」
「えー、そうでしたっけ?」
「ほらここ。有川、自分で赤線引いてんじゃん。じゃあ、この部分に入るのは?」
「die?」
「この先行詞、どう見ても男性詞だろ」
「じゃあ、das?」
「そりゃ中性詞の場合だ。あてずっぽうで答えるな」
「でも、四格には間違いないっしょ?」
「まぁな」
 俺には暗号としか思えない会話が、二人の間に成立している。
 中戸さんはテキストにシャーペンで印を付けて、有川に向けた。
「有川は関代の性も覚えること。あと単語な。ズボラすぎるんだよ、おまえの覚え方は」
「えー、俊平には関代まで覚えろなんて言わなかったじゃん」
「そんな時間ないからだよ。それにおまえの場合、スペルミスが多いから分かってても間違う可能性あるし。浅いんだから広くいかないと。だいたい格変覚えるのに性を無視すんなよ」
 ドイツ語の名詞には性別がある。たとえば太陽は女性で、星や月は男性。平塚らいてうは『原始、女性は太陽であった』と言ったらしいが、ドイツ語では、永久に太陽は女性だ。星はもちろん月が女性になることもない。英語のtheやaにあたる部分もそれに合わせて違うので、その変化も覚えなければならず、面倒臭さ満開。
 ちなみに、本や辞書など中性のものもある。
「グンジ先輩ほど性別無視してませーん」
「それとこれとは話が別。そういう口は追試に合格してからたたけ」
 ふざける有川の額を、中戸さんがシャーペンで小突いた。
 中戸さんは恋愛において性別を無視している、というか気にしない人だ。しかも、どうも複数の男性から女性視されている節があるのだが、それさえも気にしていない。だから、中戸さんが先行詞なら人称代名詞や関係代名詞の格は男性のものが来るのが正解なのだろうが、中性の格どころか女性の格でも可、という意見もある。たぶん本人も「これ違う」と指摘した上で、「でも、今回だけ見逃したげる」とかなんとか言って丸をくれるだろう。俺がここで人称代名詞を『彼女』にしてしまうと、話がややこしくなるからしないけれど(それに俺は、中戸さんを女だとは思っていない)。
 二人がそんな高度な(?)やり取りをしている間、俺は動詞の現在形に人称変化があることを学んでいた。例の文の和訳をするためである。Ichとdichの間にはもう一つ単語があるのだが、それがどうやら動詞らしいのだ。
「そっか。主語がIchだから、この単語の語尾がenじゃなくても動詞なんですね」
「そうそう。動詞の不定形はたいていenで終わってるけど、文章中でそのままなのは、主語が二格の時くらいなんだよ」
「なら、dichが『あなたを』だったから、さっきの文章は、『私はあなたを(ピー)』とか『あなたを(ピー)』とか?」
 ピーの部分は放送禁止用語なので伏せさせてもらう。しかし、俺はあくまで他の条件から類推したのだ。あの変態サークルの企画なのだから、これくらいのことは言わせられかねない。だが、その変態サークル部員二人は、思い切り顔をしかめた。
「俊平、真顔でよくそんなこと言えるな。いくらうちのサークルの先輩でも、オプションでもないのにそんなこと言わせようとなんてしないぞ」
「その前に、そんな文章がテキストに掲載されるわけないでしょ」
「歌の歌詞にもちょっとないよな。洋楽ならともかく」
 奇異なものを見るような眼が腹立たしいが、答えを間違えたのは俺なので、反論できない。
 でもそうだった。前回の時は歌の歌詞にかこつけて、カラオケで言わせたという話だった。あれ? だけどそうすると・・・・・・。








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