和訳 02

「前回はどうやって言わせたのを証明したんです? 自分でムービー撮ったんですか? それに、カラオケ行ったんならそう言ってくれれば良かったのに。それで時間潰せたじゃないですか」
 あのデートには、最低でも三時間は続けるという条件があって、俺たちは何で時間を潰すかでかなり悩んだのだ。以前にも同じ罰ゲームを経験している中戸さんに、前回はどうしたのか訊いても答えてくれず、仕方なく俺の元同級生の働いているカフェで時間を潰したのだが。
「あ、その手があったか」
 中戸さんが感心したように呟いたあたり、どうやら前回もカラオケに行ったわけではないらしい。
 そこで有川がニタァと卑しい笑みを浮かべた。
「カラオケはカラオケでも、利用したのはホテルのカラオケですよねー」
「・・・・・・入江か・・・・・・」
 入江とは、有川に教えた犯人と思しき人物のことだろう。中戸さんの呟きは苦々しい。
「いえいえ、川崎先輩ですよ。なんでも前回のデートの時は、制限時間いっぱいラブホに篭ってたんですって?」
 だから前回のことは教えてくれなかったのか。中戸さんは誰とでも平気で寝る人だが、それを大っぴらに口にする人ではない。否定する人でもないけれど。
 無視を決め込むつもりなのか、中戸さんはニタニタと迫る有川を捨て置いて、何やら書き物を始めた。頬杖をついて、手元にあったルーズリーフにシャーペンを走らせる。視線はもちろん、有川ではなくルーズリーフ。
 しかし有川は、そんな中戸さんの様子など気にも留めず、面白そうに続けた。
「しかも、オプションの証拠写真が一枚もないと思ったら、自分の携帯で撮って証明してたなんてね。しかも動画。相手にバレたら殺されるんじゃないすか?」
「もうバレてるよ。つーか、俺がバラした」
「な、」
 顔も上げずに平然とのたまった中戸さんに、有川だけでなく、俺も目を剥いた。
「そいつ何ヶ月も前からしつこく尾けまわしてきてた奴だったから、それ見せて、これ以上付きまとうなら、あんたの家や会社にコレばら撒くぞっつって脅しかけた」
 なんて人だ。ストーカーを撃退するために自分を利用するなんて。いや、それよりも大金をせしめるためにストーカーを使ったというのが正解か。どっちにしろ、サークルとストーカー、どちらに対しても勝算があってやったわけだ。
「グ、グンジ先輩でも拒否ってストーキングされることあるんだ?」
 前述のとおり、中戸さんは誰とでも寝る人だ。性別だけでなく、時には自分の気持ちすら無視してるんじゃないかと思うこともある。だからだろうか。やたらとモテる上に、何かと噂話の多い人なのに、ストーカー被害に遭っていたという噂はあまり聞かない。ストーカーなんて、拒否されなければただの恋人になるだけだもんな。
 しかし、そんな来る者拒まずの中戸さんにも一応デッドラインはあるらしい。
「妻子持ちはパス」
 若干引き気味な有川の質問に、中戸さんは端的かつ冷ややかに答えた。そして視線は手元に落としたまま、表情ひとつ変えずに。
「それより有川、俊平くんが引いて出てったら、おまえのせいだからな。責任取ってうちに住めよ」
「い、いいですよぉ。俊平と違って、俺にはすでに箱辺っていう彼女がいるし」
 中戸さんは恋愛において性別を無視しているので、彼と住んでいると同棲だと思われて、彼女ができにくくなる可能性がある。現在俺に彼女がいないのも、俺に問題があるからではなく、この人と住んでいるからだ。きっとそうに違いない。とまぁ、その真偽はともかく、有川は既に自分には彼女がいるので、ここに住むことなど痛くも痒くもないと言いたいのだろう。腰が引けているのを隠すように、大きく打って出た。
 しかし。
「腹いせに、その箱辺じゃ勃てない身体にしてやるから楽しみにしとけ」
「イヤー! それはイヤー!!」
 ずっと下を向いていた中戸さんに、ふいに人の悪そうな笑みで流し見られ、有川は身を捩って悲鳴を上げた。その有川の眼前に、中戸さんは何やら書き込んでいたルーズリーフをベラリと掲げ、
「最低限これだけは間違いなく書けるようにしとけ。これで二十点は確実だから」
 怪しげな会話を打ち切った。
 横からルーズリーフを覗くと、片肘ついて書いたとはとても思えないほどの達筆で、五十ほどの単語と意味が書き連ねてあった。俺には? と訊くと、例の和訳ができたらねという返事で、どうやらその中に答えもあるらしい。
「歌のフレーズで使われるような言葉で、教科書に載ってもおかしくない文章・・・・・・。英語だとどうなる?」
 俺はヒントを求めて有川を見た。奴は俺からルーズリーフを隠すように裏返して、
「んなの言ったらすぐ分かっちまうよ」
 ちっ、おまえは俺が言ったのを録音できればなんでも良かったんじゃなかったのかよ!?
「ケチ」
 俺はぶーたれてテーブルにしなだれかかった。課題はいつも俺に頼ってくる有川が分かっているのに、自分が分からないという状況が気に入らない。
 有川は激励のつもりなのか、俺の背中をバシバシ叩いた。
「沈むな、俊平! 英語だとすぐ分かるような単語で、『私はあなたを』に続く言葉なんて一個っきゃないだろーが!」
「I like you. I love you. I need you. I want you. I hate you他にも山のようにあるじゃねーか」
 俺は沈んだまま、思いついた有り得そうな英文を並べ立てた。さすがに『憎む』は違うだろうが。
 すると有川が、
「惜しい! 今、答えがあった!」
「え、どれ!?」
 思わず身を起こす。しかし、そんな俺たちを見ていた中戸さんは呆れ顔で俺の傍らを指差した。
「あのさぁ二人とも、クイズじゃないんだから。たしかに前後の文脈から推測するのは大切だけど、今はテスト中ってわけでもないし、長文読解でもないんだから辞書引けば?」
 中戸さんの長い指の先にあったのは、新品同様の俺の独語辞典。文中の単語をそのまま引いちゃまずかったよなぁと思いながら渋々手を伸ばせば、不定形で引くよう釘を刺された。俺の引き方に問題がありそうなことなどお見通しらしい。
「不定形はたいてい何で終わるんだったか覚えてる?」
「えーっと、enだから、liebenで引けばいいんですよね」
「そうそう。例にそのまんまの文が載ってると思うよ」
「あ、あった」
 たしかにそれはまんま載っていた。単語の下に、会話にも使える平易な文として、枠付でデカデカと。そしてそれは有川の指摘どおり、さっき俺が並べ立てた英文の中にも該当するものがあったのだが・・・・・・。
 これを日本語で中戸さんに向かって言えってか!? しかもこれ、会話に使えってことで、くだけた訳にしてあるんですけど。
「よし、俊平、いつでもいいぞ」
 有川が嬉々として携帯を構えて。
「んじゃ、和訳どうぞ」
 中戸さんににっこり促されて。



 俺はうつむいたまま、その日本語訳を口にした。





 Ich liebe dich.
 ――あなたを愛してる。





「はい、よくできました」
 小学校の先生のような口調で言われてチラリと視線を上げると、中戸さんは笑みを深めて小さく拍手してくれた。






 野間先輩からの徴収分は、俺の自由にしていいという中戸さんの申し出により、肉を食おうという有川の意見を却下し、翌月の水道代に充てることにした。








数をこなす30題

時系列index




inserted by FC2 system