拍手 01

 鼓膜が破れるんじゃないかと思うほどの盛大な拍手が耳を打つ。すさまじいスタンディングオベーション。その中を、真衣が悠然と退場していく。水浸しの地面に両足を投げ出し、呆然と座り込んでいる俺に背を向けて。
 左の視界が悪い。まだ真っ昼間だというのに、真衣の背中が夕焼けに染まっているかのように赤く見える。片目を閉じて右目だけで見てみると、少しだけ、世界は昼間の色を取り戻した。
「・・・・・・っツー・・・・・・」
 左のこめかみが熱い。胸が苦しい。腹部が痛い。身体が重い。
 拍手が鳴り止み、真衣の姿が完全に見えなくなると、俺はその場に仰向けに寝転んだ。もう一ミリたりとも動きたくない。
「大丈夫か、俊平!?」
 有川が心配げに覗き込んでくる気配がしたが、俺は目を開けるのも億劫で、眠いとだけ呟いた。が、どうやら有川には聞こえなかったらしい。
「何? おい! どうしたんだよ? まさかこんなことくらいで死ぬとか言うなよ!?」
 死ぬか馬鹿。
 でも本当に、どうしてこんなことになったんだろう。
 俺は目を瞑り、麻痺しかけた頭で記憶の中をまさぐった。






 事の始まりは、十日くらい前だったように思う。講義棟の廊下を有川と連れ立って歩いていると、向かいから来た男と肩がぶつかった。特に人通りが多かったわけでも廊下の幅が狭かったわけでもない。ぶつかるなんて互いに鈍臭かったなと思いつつ会釈をすると、ものすごい形相で睨まれた。敵意とか憎悪とか、そういったものが含まれているような眼で。しかしそれは俺の眼つきがあまり良くないから、ガンを飛ばしたと勘違いされたのだろうくらいにしか考えていなかった。
ところが、その日のうちにもう一度同じ男に出くわした。それも、だだっ広い大学の駐車場で、後ろから体当たりされるという、明らかにわざとだと分かるシチュエーションで。しかもその時、前に二、三歩よろけた俺に、奴はこう言ったのだ。
「あんた、蒔田先輩だろ? ホモのくせに目障りなんだよ」
「ホモのくせにって・・・・・・」
 態勢を立て直して相手をよく見れば、まだあどけない顔をしている。俺のことを先輩と呼ぶくらいだから、入学したての一年だろうと推察した。
 俺は別にホモではない。なので、これはきっと怒るところだったのだろう。けれど俺はホモでなくとも、ホモ呼ばわりされることには慣れていて、今更怒るのも体力の無駄遣いだと知っていた。それに、こんな敵意のある眼で俺をホモ呼ばわりする人間の目的は、たいてい一つに絞られた。
「おまえ、中戸さん好きなの?」
 中戸さんは俺の同居人で、男なのに平気で男の恋人を作ってしまう人だ。実はバイセクシャルなのだが、男しかダメだと思っている輩も多い。そして俺がホモだのゲイだの言われ慣れているのは、あの人と暮らしていることに起因する。中戸さんと同居していると、同棲だと思われることがしばしばあったのだ。
 最近はその誤解も解け、あまり言われることもなくなっていたのだが。
 中戸さんは結構な器量良しでそこそこノリも良く、ゲイだけでなく女子学生やノン気の奴らにも人気がある。ついでに頭も良いので、怪しい噂が多いにも関わらず、教授連中にも受けが良いらしい。もちろん、それらの好意には恋愛感情が含まれていることも多々あり、そういう奴らは同棲の噂のあった俺のことが面白くなくても不思議はない。こいつもそんな一人かと思ったのだが。
「はぁ!? なんで俺があんな女男好きになんだよ!?」
 顔をしかめめて、ばっかじゃねーのと吐き捨てられた。その態度には、図星を指された人間のバツの悪さとか、本心を見抜かれた驚きなんてものは微塵も含まれておらず、こいつは照れ隠しで嘘を言っているわけでもないのだなと分かった。
 が、そうすると、今度は何故自分がこんな態度を取られるのかが分からなくなった。俺に向けられていたのは、明らかな敵意と嫌悪感。しかし、中戸さんを好きでもない奴に、何故敵視されなければならないのか。もっとも、中戸さんを好きな奴にも、敵視されるような事実は何もないのだが。
「あんたらみたいなの、マジ気持ちわりぃ。ムカつく」
 唾を吐くように言われ、面と向かってここまであからさまに言われたことはなかったなとぼんやり思った。中戸さんの外見のせいか人徳のせいかは定かではないが、不本意にも「相手があれじゃ仕方ないか」と納得されることはあっても、不思議と「気持ち悪い」などと言われたことはなかったのだ。もちろん、陰では言われていたんだろうけども。
 そんなこんなで、幸か不幸かこういう状況に免疫のなかったこの時の俺は、相手の剣幕にただただ吃驚するばかりで、俺は違うんだけど、とか、ムカつくんなら関わらなきゃいーだろ、とか、そんな言葉すら出てこなかった。
 しかし、事はそれだけでは終わらず、それから数日のうちに奴の行動はエスカレートした。廊下ですれ違いざまにぶつかってくるのは当たり前。学食でうどんのトレイを運んでいる時に背中を押されたり、階段から突き落とされそうになったりしたこともある。しかも、その度に必ず一言嫌味を残していくのだ。「変態野郎」だの「キモイから消えろ」だの、まるで小学生のガキみたいな捨て台詞を。
「なんだ、ありゃ。一年の西岡じゃん」
 いつものように背中をどつかれそうになったのをかわし、「ホモのくせに逃げるな」という自分の鈍臭さを棚に上げたような嫌味を無視していると、隣を歩いていた有川が奴を振り返った。
「知ってんの?」
「今年、真衣先輩のサークルに入った奴だって。えらい態度だな。知り合いか?」
 俺は数日前から執拗に嫌がらせのようなものを受けていることを、有川に話した。すると奴は思案顔になり、
「おまえ、嫉妬されてんじゃん?」
 有川の話しによると、サークル棟では、西岡が真衣の後をついて回っている姿が多数目撃されており、奴が真衣にぞっこんなのは、あそこの利用者なら誰でも知っていることらしかった。真衣がそれを少々疎ましく思っているらしいことも。しかし。
「だからって、なんで俺が嫉妬されなきゃなんねーんだよ」
 真衣は二つ年上の先輩で、俺が半年くらい前まで同棲していた相手だ。けれど今現在、他人から嫉妬されるような交流は、中戸さん以上に何もない。第一、振られたのは俺の方なのだ。急に出て行ってくれと引導を渡された俺は、一夜にして彼女と住処を失い、その時たまたま同居人を募集中だった中戸さんと偶然知り合って今に至る。
「あれから真衣先輩も誰とも付き合ってねーみてーだし。まだ俊平のこと好きなのかもよ?」
「有り得ねーだろ。出てけっつったの向こうだぞ」
「女心は複雑なのよー」
 有川は気味の悪い裏声を出してシナを作った。
 有川の言うように、真衣がまだ俺に未練があるとは到底考えられなったが、西岡が何かと突っかかってくるのは、真衣絡みであるとは考えられる気がした。かと言って、真衣に止めるよう諭してくれと頼む気にもなれなかった。後々喋れなくなるほど気まずい別れ方をしたわけではないが、やはりこちらから声を掛けるのは気が引けた。
 結果、西岡のことはやっぱり無視でいこうという考えに落ち着いた。真衣とは本当に何もないのだから、こちらの反応がなければ、そのうちに気付くか飽きるかして止めるだろうと思ったのだ。真衣に邪険に思われているらしい西岡に、多少同情したせいもあるかもしれない。
 ところが。
 インフルエンザで五日ほど大学を休んで復学して来ると、西岡の嫌味はかなり性質の悪い成長を遂げていた。
「二人して大学休んで何やってたんだよ? あの変態と四六時中ヤってたわけ?」
 朝イチの講義の後に背後からそんな囁きを受け、「気色悪ぃー」と遠ざかっていく背中を見送りながら、俺は拳を握り締めて後悔した。完治する前に登校してインフルエンザウィルスをうつしてやれば良かったと。
 それにしても、気色悪いのはあいつの方だ。中戸さんは最初の三日だけ大学を休んで看病してくれていたようなのだ(俺は半分意識が飛んでいたので、記憶が曖昧)が、何であいつが二人とも休んでたって知ってんだよ。中戸さんの方は有名人みたいだからともかく、俺が休んでたことまで知ってるなんて、あいつは俺のストーカーか。
 そんなことを考えてゾーッとしたのが今朝のこと。
 その考えは結果的に杞憂だったのだが、それから昼までに言われた言葉は、今思い出すだけでも腸が煮えくり返る。
 俺が病み上がりだと知ってか知らずか、今日の西岡はどつくようなことはして来なかった。その代わり、今までとは違う薄笑いを浮かべ、休む前とは違うタイプの嫌味を浴びせてきた。俺を罵倒しても暖簾に腕押しだとやっと察したのだろう。西岡は嫌味の矛先を変えてきたのだ。
「中戸先輩ってさ、四六時中ヤれるほどイイわけ? どんな声で啼くのか教えてよ」
「あの変態、男に刺されそうになったこともあるんだって? 男の尻軽もそこまでいくとすごいね。あんたが棄てられる日も近いんじゃない?」
「今度、俺もお願いしてみよっかな。よく見るとカワイイし、誰でもヤラしてくれるらしいじゃん」
 俺の行く先々に現れては、卑しい笑みを浮かべてそんなことを囁いてきやがったのだ。








数をこなす30題

時系列index




inserted by FC2 system