拍手 02

 中戸さんを引き合いに出すなんて反則だ。あの人は何も関係ないのに。挑発だと分かっていても「気色悪いんじゃなかったのかよ!」と言い返したくなるではないか。しかし、それを言ったが最後、歯止めが利かなくなりそうだったので、俺はじっと黙っていた。それに、情けない哉、中戸さんが誰とでも寝るのは本当だ。
 しかし、俺の我慢も昼休みに学食の前で吐かれた暴言で、とうとう臨界点を超えた。
「さっき、あんたの同居人が矢城教授の部屋から出てくるところ見たよ。あんなジジイと二人きりで何してたんだかね。頭良いっていうけど、身体で成績上げてもらってんじゃねーの」
「てめ、いい加減にしろよ」
 俺は薄ら笑いを浮かべる西岡を上から睨み付けると、奴の腕を掴んで学食のある校舎の裏へ引っ張っていった。先に食券を買っていた有川が、学食の入り口から何か言っているのが分かったが、何を言っているのかは聞き取れなかった。きっと「早まるな」とか「やめとけ」とか、止めるようなことを言っていたんだと思う。
「んだよ? まさかここで俺をどうにかしようってんじゃねーだろーな、この変態。俺は高校ん時、ボクシングやってたんだからな!」
 人気がない所に連れてこられた西岡は、辺りを見回して吼えた。それに呼応するかのように、あちこちの窓が開く。
「だからどうした」
 俺はギャラリーの視線を感じながら、西岡を睥睨した。
「何で俺を目の敵にするのか知らないけどな、俺の周りの人間の悪口言ってんじゃねーよ、女々しい。そんなだから女に疎ましがられるんだよ」
 低く言い捨てて、怒りに染まる顔に背を向けた。腕っぷしに自信のない俺は、有川に止められるまでもなく、身体を使った喧嘩などするつもりは毛頭なかった。ただ、大勢人のいる場所で、他人を罵りたくなかっただけだ。この時も多くの視線を感じたが、彼らには、俺の言葉までは聞こえていなかっただろう。
 けれど、かなりの人数に注目されていたのだから、さっさといなくなった方が身のためだった。噂の多い中戸さんと暮らしているとはいえ、噂されるのは好きじゃない。俺は平穏に暮らしたいのだ。刺激なら、同居人の噂話を聞くだけで十分。それに、西岡の遠吠えが決して虚勢だけでないことは、掴んでいた腕から窺えた。二重の意味で、早く退散しなければマジでこの身がやばいと、その時の俺でも分かっていた。
 ところが、逃げるとは思われたくないという僅かなプライドが、己を最悪の事態へ突き落とした。なりふり構わず走って逃げれば良かったと後悔しても、この身体の痛みは引いていかない。
 足早に、けれど内心の怯えを気取られないよう悠然と見えるように歩いていた俺は、すぐに後ろから肩を掴まれた。
 振り返ると殴られる。
 そう思って頑なに無視を続けたものの、ボクシング経験者の腕力には敵わない。顔は振り返らずとも無理矢理身体の向きを変えられて、身構える間もなく腹部に拳を入れられた。校舎にどよめきが起こる。
「んだよ、弱っちぃくせに偉そうに。男組み敷いてるっていうからどんだけ強いのかと思えば。ま、そうだよな、あの変態は誰でもヤらせるみたいだし」
 腹を押さえて蹲る俺の脇腹に、西岡の汚いスニーカーが当たった。
「第一、あんな女男のどこがいいんだよ? ナヨナヨしててキモイし、成績良いのだって教授に抱かせてるからに決まってんじゃん」
「うっせ、黙れ! てめぇのやってることのがよっぽどナヨっててキモイわ!」
 俺はコツコツと軽く当たってきていた奴の足を掴んで、出来る限り持ち上げた。バランスを崩した西岡が尻餅をつく。俺は這うようにして奴の上に乗り、胸倉を掴んだ。顔を近づけて、押し殺した声で囁く。
「真衣に相手にされないからって、他人に八つ当たりしてんじゃねーよ。これ以上俺の前で中戸さんを侮辱してみろ、てめぇの所業を全部真衣にチクってやる」
 我ながら情けない脅しだが、他に西岡にダメージを与えられそうなことを思いつかなかったのだから仕方がない。西岡も卑小だが、俺も随分と小さい男だ。
 西岡は躊躇なく頭を起こして俺に頭突きを喰らわせると、いつの間に立ち上がったのか、屈んで頭を押さえていた俺の髪の毛を引っ張り、顔を上向かせてから胸の辺りを蹴り上げてきた。
「そんなにあの男がいいのかよ!? あんな女のなり損ない、室生先輩に比べたらクソじゃねーか!」
「ク、ソは、・・・・・・て、めぇだろ」
 俺の声は、たぶん西岡には届かなかっただろう。度重なる逆転劇に、校舎が煩いくらいに湧いていたから。
 俺は胸を抱くようにしてしゃがみこんだ。口を開けて喘ぐいだが、肺にうまく空気が入ってこず、痛みと共に野次の波に飲まれそうになっていた。それでも俺は立ち上がらずにはいられなかった。なんとか膝を伸ばすと、待っていたかのように正面から拳が飛んできた。咄嗟に避けてこちらも右腕を繰り出したものの、拳は西岡にはかすりもせず、俺の足は勢い余ってたたらを踏んだ。すかさず右の頬骨に衝撃が奔り、よろけたところへ鳩尾にも一発。
「あんな変態がいなけりゃ・・・・・・あんな、あんな奴、前に刺されそうになったって時に死んでりゃ良かったんだ!」
 死んでいいわけない! 何も知らないくせに。中戸さんがどうして男ともできるようになったのか、何も知らないくせに!
 俺はそう言いたいのを我慢して、ふらつきながら西岡を睨み付けた。その顔が気に入らないと、今度はまた顔面を殴られる。
「室生先輩泣いてたんだからな! なんであいつがいいんだよ!? なんで室生先輩を可哀相な目に遭わせたりすんだよ!? てめーらみたいな変態がいるから・・・・・・っ!!」
 西岡の泣いているかのような叫びに、俺は面食らった。
 ちょっと待て。なんだそれは。今更、真衣が泣くことで俺が殴られる意味が分からない。
 しかし、そんな俺の問いが声にならないうちに、俺の身体はサンドバッグに成り下がった。西岡はそれ以上真衣のことは口にせず、ただ中戸さんを罵りながら、俺の顔といわず腹といわず殴り続けた。校舎の壁際に追い詰められ、手も足も出せないでいる俺を見かねたのか、窓からは「やれやれ」という歓声に混じって、「もうやめて」とか「誰か止めろ」という制止を求める声も聞こえてくる。
 俺は何度も意識が飛びそうになったが、それでも膝をついては立ち上がった。既に声も出なくなっていた俺には、立ち上がって睨みつけることくらいしか西岡の暴言に反論する術がなかったのだ。しかし、立つのがやっとで、反撃なんて夢のまた夢。そろそろ視界が霞んできたところで、いきなり横から水をぶっ掛けられた。
「ぶっ、」
「なっ、」
 一瞬、何が起きたのか分からなかった。西岡の攻撃も講義棟からの野次もぴたりと止んだ。まさに水を打ったような静けさ。
 腹を庇っていた手で額から流れてきていた血と一緒に水を拭い、そっと水の降ってきた方に顔を向ければ、
「何やってんのよ、あんた達!」
「む、ろお先輩・・・・・・」
 バケツを持った真衣が仁王立ちしていた。
「な、何で邪魔するんですか! せっかく俺が・・・・・・」
「恩着せがましいこと言わないでくれる!?」
 縋るような西岡の抗議を、真衣がぴしゃりと跳ね除ける。
「あんた達が殴り合おうが殺し合おうが知ったこっちゃないけどね、あたしの名前を大声で言うのはやめてよね。恥ずかしい」
「だって先輩、新歓コンパの時、泣いてたじゃないですか。こいつが原因なんでしょ? こいつがあんな女男のとこに行ったから・・・・・・っ」
「あたしのためにやったとでも言いたいわけ? 西岡くん、何か勘違いしてるんじゃない? あたしはこんなこと望んでないし、すっごい迷惑!」
「でも先輩、中戸くんのせいでって・・・・・・あれって、あの中戸群司のことでしょう?」
「あたし、そんなこと言った覚えないけど」
 真衣の氷のごとき剣幕に、西岡は小さくなった。
「だいたいシュンのせいであたしが泣くわけないじゃない。冗談やめてよね。今更、シュンが他の女と付き合おうが中戸くんと寝ようがどうだっていいわよ」
「いや俺、中戸さんとは・・・・・・」
 そういう関係じゃないし。
 切れた口中に顔を歪めながら否定しようとすると、「どうだっていいって言ってるでしょ!」と怒鳴られた。
 それから真衣は、ゆったりとした動作で西岡に向き直ると、一語一語区切るように、勿体つけた口調で言った。
「勘違いしないで。いい? あたしが振られたんじゃない。シュンはあたしの方から振ったの」
 分かった!? と詰め寄る真衣に、西岡はぶんぶん首を縦に振った。すると真衣はすっと身を引き、
「分かったなら、もうこういうことしないでよね。あと、あたしに付きまとうのもやめて。あたし、西岡くんみたいな子ってタイプじゃないの」
 バケツ片手にくるりと踵を返した。
 途端に校舎から割れるような拍手が湧き起こった。あちこちから、真衣を賞賛する声が上がる。この雰囲気にいたたまれなくなったのか、それとも失恋のショックからか、西岡は真衣とは反対方向へと走り去った。
 そして俺は。
 力尽きてその場に座り込んだのだった。








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