拍手 03

 目を開けると、見慣れない場所に寝転がっていた。白いパイプベッドに、それを囲む白いカーテン。ベッドサイドでは、丸椅子に腰掛けた有川が、俺を覗き込んでいた。
「おう、目が覚めたか。気分はどうだ?」
「・・・・・・最悪。ここどこ?」
「医務室。おまえ、ぶっ倒れたまま呼んでも叩いても起きないんだもん。マジ死んだかと思ったぜ」
 どうやら俺は気を失っていたらしい。びしょびしょだった服は、いつの間にか午後の体育で使う予定だったジャージに着替えさせられており(体育のある日で良かった)、切れたこめかみにはカットバンが貼られ、頬には有川の手によって濡れタオルが押し当てられている。
「校医の話だと軽い脳震盪だろうって」
「ふうん」
 俺は有川の手からタオルを受け取って、火傷でもしたかのように熱い右頬に押し当てた。耳の中はまだ、鳴り止まない拍手でわんわんいっているようだ。
「まっさか俊平が殴り合いの喧嘩するとはなぁ。何言われても冷めた顔して遣り過ごす奴かと思ってたけど、おまえでも熱くなることあるんだ」
「殴り合いじゃなくて、殴られただけじゃねーか」
 俺は言ってから顔をしかめた。喋ると切れた口中が痛む。
「でもおまえ、すごい形相してたぞ。そんな腹立つようなこと何言われたんだよ? ひょっとして、おまえもまだ真衣先輩に未練あるとか?」
「んなんじゃねー」
 今度は極力口を動かさないように答えた。口は痛いが、大学休んでまで看病してくれた同居人を悪く言われて頭に来た、なんて正直に言わなくて済むのは有り難い。ただ、『も』という言い方が気になり、そのことについて質問できないのはもどかしかった。
 真衣自身がキッパリああ言ったのだから、彼女が俺に未練などあるはずもないが、西岡の『泣いていた』という言葉がひっかかる。その理由を知ったところでどうしようもないのだが。
「西岡の奴、おまえが真衣先輩棄ててグンジ先輩んとこに行ったと思ってたみたいだな。真衣先輩が新歓コンパで泣いて愚痴ってたの見て、勘違いしたらしい」
 だからなんで真衣が泣いて愚痴るんだよ。
 口は動かしたくないので、ただ問い掛けるように有川を見る。俺の疑問が伝わったのかどうかは分からないが、有川はその場で愚痴を聞いたという人物から又聞きした話を喋り始めた。
「真衣先輩な、前に付き合ってた奴もグンジ先輩と同居して、それが原因で別れることになったらしい」
 真衣の相手が中戸さんと暮らし始めたのが、真衣と付き合い始めて一月くらい経った頃のこと。中戸さんがゲイだという噂は知っていたものの、彼氏はノーマルなのだからと、真衣は気にも留めていなかったらしい。第一、それは急速に二人の仲が深まっていた時期で、お互いに(というか、少なくとも真衣は)相手が心変わりするなど、微塵も思わなかった。
 ところが、周囲はそうはいかなかった。俺が中戸さんと同居を始めた頃そうだったように、真衣の彼氏もさんざん誤解を受けたそうだ。もちろんそれは真衣も同じで、男に恋人を取られた女として、同情と憐れみに満ちた目で見られるようになったらしい。彼氏はすぐに中戸さんとの同居を解消したが、同時に真衣にも別れを切り出したそうだ。
「そいつ、それっきり大学来なくなったんだと。グンジ先輩の顔見るのが苦痛だっつって」
 それはやっぱり、嫌な噂を立てられた元凶だからだろうか。
 ――これじゃあ、あたしが男にシュンを取られたみたいじゃない。
 中戸さんと同居すると言った時の、真衣の動揺した顔が浮かんだ。いい人そうだよと言う俺に、「いい人だから良いってもんじゃないでしょ!」と激昂してもいたっけ。だからあの時、自分から出て行けと言っておきながら、まだ居てもいいと言ってくれたのか。そんなこと、全く知らなかったから俺は・・・・・・。
 いや、知っていても結果は変わらなかったかもしれない。先に出て行くよう言ったのは向こうなんだし、あの時俺たちは既に別れていたのだから。
 ただ、俺の考えなしな行動のせいで、彼女が二度も心ない噂に傷ついたのだとしたら、少し申し訳ないなと思う。おかしな噂にも、俺はろくすっぽ弁解もしなかったから、前の彼氏の時よりも周囲の誤解は大きかったかもしれない。西岡だって、俺が大した否定もせずにあそこに住み続けているから、俺が先に心変わりしたと思い込んだのだろうし。小さなプライドで、俺は彼女に振られたということを、あまり大きな声では言いたくなかったのだ。
「おまえはとんだとばっちりだったけど、西岡はさ、真衣先輩のために何かしたかったんだろうな」
 ま、だからって、振られたことに同情はしないけどな。
 有川はそう言って小さく笑った。
 西岡は、自分がいくら慕っても相手にされないから、彼女を傷付けた相手を懲らしめようと考えたのか。考え方は浅はか過ぎてお話にならないが、中戸さんにまで直接手を出さなかっただけマシか。あの人は本当に何も関係ないのだから。
 いや、本当に関係ないと言い切れるのか? 真衣の元カレが彼女の元を去った直接の原因は、本当に噂なんだろうか。中戸さんは恋人のいる人間とは関係しないと言っていた。だとしたら、その人が苦痛だったのはひょっとして・・・・・・。
 さっき、真衣に途中で遮られても、俺はもっとはっきり否定すべきだっただろうか。あの時、彼女の顔は、怒っているのに泣きそうに見えた。
 でも。
 ぼんやりととりとめもないことを考えていると、ドアを軽くノックする音がして、医務室に誰か入ってきた。校医は不在なのか、出迎える声はない。今現在、俺の他には利用者もいないようだった。
「あ、来た来た。じゃあな。俺、行くから」
 有川はカーテンの向こうへ顔を覗かせて入ってきた人物を確認すると、俺を振り返って丸椅子から立ち上がった。講義なら俺も行くと起き上がろうとすると、軽く頭を押し返される。
「おまえ、この状態で体育とか出るの無理だろ。グンジ先輩におまえのこと頼んどいたから、連れて帰ってもらえ」
 有川はカーテンの向こうへ消えると、中戸さんらしき人物と二言、三言交わし、彼に車のキーを渡して出て行ったようだった。中戸さんは免許は持っていても車を所有していないから、俺を運ばせるために自分のを貸してくれたのだろう。
 引き戸の閉まる音と入れ替わるように、白いカーテンの向こうに人影が立つ。その影は、パチパチと場違いとも取れる拍手をしながらカーテンの中に入ってきた。
「・・・・・・嫌がらせですか」
「まさか」
 中戸さんは心外だというように、ちょっと目を見開いた。
「純粋なる賞賛。すごかったね、俊平くん」
「・・・・・・どこが」
「何度殴られても最後まで立ってたじゃない」
「見てたんですか」
 俺は頬に押し当てていたタオルを開いて、顔を隠した。あんな一方的に殴られて手も足も出ない様を見られていたなんて、恥ずかしすぎる。
「俺、ちょうど四階の教室にいたから。何度か止めに入ろうかと思ったけど、俺が行くと俊平くんの立場なくなるかと思って。ごめん」
「や、別に」
 四階なら俺たちの会話は聞こえてはいなかっただろうが、たしかに中戸さんが出てきたら、もっと大騒ぎになっていただろう。でも、もしこの喧嘩が中戸さん絡みでなかったとしても、四年生である彼が助太刀に来たのでは、たしかに俺の立場はなかったかもしれない。
 ただ、西岡の罵倒までは聞こえなかっただろうと、俺は安堵の息を漏らした。中戸さんだって、ああいった陰口には気付いているかもしれないが、できるだけ聞かせたくはない。
「殴られるのは親父で慣れてるんで」
「・・・・・・そっか」
 こんなにボコボコにされたことはなかったが、親父はわりに手や足の出る人だ。避ければ避けた分だけ殴られる回数も増えるので、俺はなるべく一発で終わるよう、おとなしく歯を食いしばっていた。そのせいか、多少打たれ強くはなっていたらしい。








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