拍手 04

「あー、でも、一発も入れられなかったなんて、俺、いくらなんでも弱すぎ・・・・・・」
 だんだん息苦しくなってきて、濡れタオルを顔から外して嘆くと、中戸さんは「そんなことないよ」と微笑んだ。
「ね、俊平くん、喧嘩の時一番怖い相手ってどんな奴だと思う?」
「力のある奴とか・・・・・・反射神経のいい奴、ですか?」
 何か楽しい秘密でも打ち明けようとする子供のような笑顔で顔を覗き込んでくる中戸さんに、突然何を言い出すのかと思ったが、邪険にすることもできなくて。俺は考えながら答えた。すると、『強い』ではなく『怖い』相手だと否定される。それは同じことじゃないかと思ったのでそう言うと、微妙に違うのだと返された。
「同じようだけど微妙に違うんだ。何度殴ったり蹴られたりしても、倒れない奴。倒れてもまた起き上がってくる奴。こういう相手が喧嘩の時には一番怖い。喧嘩に制限時間や判定勝ちなんてないからね。殴っても殴っても起き上がってこられてみなよ、自分のスタミナにだって限界はあるし、すごく自分を無力に感じるから」
「・・・・・・ひょっとして、慰めてくれてます?」
 喧嘩なんてしたことがなさそうなのに、中戸さんの言い方には真実味があるようで、ちょっと怖い。でも、その分救われる気もする。「本当のことだよ」と微笑む中戸さんは、どう見ても喧嘩慣れしているようには見えないが。
「だからさ、俊平くんは弱くなんてないよ。今日のところは二人とも残念だったみたいだけど、俊平くんならまたいい人が現れるって」
 やっぱり慰められているような気がする。しかも、激しく勘違いされているような。ひょっとしてこの人、俺らが二人揃って今日真衣に玉砕したと思ってないか?
「いや別に、そこらへんは落ち込んでないですから。俺、真・・・・・・室生先輩にはとっくに振られてますし」
「うそ。いつの間に」
 俺がさっきの『室生先輩』に振られていたという事実に、中戸さんはおおいに驚いたようだ。同居してるのに気付かなかったとでも言いたげだ。が、そんなのは当たり前で。
「中戸さんと最初に会った日に」
「えっ、じゃあ、俊平くんが同棲してた『真衣』さんて・・・・・・」
「室生先輩です」
 どうやら中戸さんは真衣の苗字しか知らなかったらしい。自分が別れの原因の一端を作ってしまった元同居人の彼女だったことに気付いたのか、珍しく難しい表情を浮かべて考え込む様子を見せた。追い出された後だったとはいえ、俺に同居話を持ちかけたことを後悔しているのだろうか。
 ・・・・・・言うんじゃなかったな。
 俺はものすごい後悔に襲われて、再びタオルで顔を隠した。
 この人はどう思っただろう。真衣を取り合ったのではないなら、何故喧嘩なんかしたのかと訊かれないのは有り難いが、ふいに降りてきた沈黙が怖い。後悔だけならまだしも、軽蔑とかされてたら・・・・・・。
 手を出したのは向こうが先とはいえ、西岡を校舎の裏に引っ張っていったのは俺だ。それなのに、そこでまんまと返り討ちのような目に遭い、思いっきりボコられて、とっくの昔に振られた女に助けられた男。
 ・・・・・・うっわ、どう考えてもサイテー。
「・・・・・・俺かっこ悪すぎ。すっげ自己嫌悪」
 一連のことを思い出すと、自分でいるのが嫌になった。思考が口をついて出るほど嫌だ。誰でもいいから変わって欲しい。
 タオルの下で泣きそうになっていると、ふわりと頭を撫でられた。「そんなことないって」と穏やかな声が降ってくる。
「言ったでしょ。一番怖いのは、いくら殴っても立ち上がってくる奴だって」
「・・・・・・頭撫でられながら言われても、説得力ありませんよ。頭撫でるって、怖いと思われてない証拠だと思うんですけど」
「じゃあやめる」
 すっと頭から手が離れる。そう仕向けたのは自分なのに、手の感触がなくなると、どこか物足りなさを感じて。これじゃあ拗ねている子供みたいだ。そう考えて、俺はもっと自己嫌悪に陥るようなことに気づいてしまった。
 妙に心細くなったり不安に襲われたりしている時、不思議と中戸さんは俺の欲しい言葉をくれる。自分でも欲しいなんて自覚のない、漠然としすぎたそれを、この人はいとも簡単に見つけて供給してくれるのだ。だから。
 ひょっとしたら俺は、甘えたくて、慰めてもらいたくてあんな言葉を吐いたのかもしれない。
「まぁ、あれは一般論というか、俺の持論みたいなものであって、俺が実際に俊平くんを怖いと思ったわけじゃないけど。でもね、」
 一度離れた手が、また俺の頭部に近づく気配がした。白い布越しに次第に大きくなるその影は、俺が意図に気付いて抗う間もなく、タオルの端を摘んで顔から取り去ってしまった。開けた視界で、中戸さんがにっこりと微笑む。
「俺はあの時の俊平くん、すごく格好良いと思ったよ」




・・・・・・前言撤回。




 わざわざ面と向かって、何言い出すんだ、この人は。
「・・・・・・良いわけないですよ」
 俺は剥ぎ取られたタオルの代わりに、薄い布団を頭頂部まで引き上げた。
 さっきのが欲しい言葉だったなんて思いたくない。いや、そこは百万歩くらい譲って受け入れたとしても、この人に言われたかったなんて断じて認めたくない。加速度をつけて脈打つ鼓動は、決して嬉しいからじゃない。きっと笑顔のせいだ。中戸さんがあんまりきれいに笑って、耳慣れない褒め言葉なんかくれるから。・・・・・・って、それもおかしいだろ。
 だいたい、中戸さんの笑顔なんて、どこまで身が入っているか分かったもんじゃないのだ。冷静に考えれば、いつも『上の空』の中戸さんが人をどうこう思うはずもない。少し前まで勉強を教えていた高校生だけは別みたいだが、俺に向ける言葉や笑顔なんて上辺だけで、良くも悪くも俺に関心があるわけじゃない。第一、喧嘩の本当の理由さえ訊いてこないのだから。いちいちドキドキするなんて馬鹿らしい。
 それに、こんなことで俺が人にどう思われるか気にするなんて、どうかしてる。中戸さんは同居人だから、軽蔑されたり嫌われたりするのは避けたいが、最悪でも追い出されさえしなければ問題ないのだ。それなのに。
 俺、殴られすぎて頭おかしくなったのかも。
 結局俺は、やっぱ、お世辞だろうと慰めだろうと、誰にだって褒められれば嬉しいもんだもんな、と、思うことにした。
「でも、負けて勝つってことも覚えなきゃね。俊平くん病み上がりなんだから、あんな無茶するもんじゃないよ」
「はい。すいません」
 その病んでた時に看護してくれた人に逆らうようなことが言えるわけもない。今、またしても面倒を掛ける事態になっているのだから尚更だ。俺は素直に返事して、身体が悲鳴を上げないよう、慎重に起き上がった。腹部を押さえながら床に足をつくと、中戸さんがすかさず肩を貸してくれようとする。俺は大丈夫だとそれを断って、有川が運んでくれていた自分の荷物だけ持ってもらうことにした。
「帰ろうか」
 俺が靴を履くと、それを心配そうに見守っていた中戸さんが、柔らかな笑みで促してきた。『上の空』だなんて思えない、思わず笑顔で頷いてしまいそうな、優しい笑みで。
 ――グンジ先輩の顔見るのが苦痛だっつって。
 俺もそんな時が来るのだろうか。この顔を見るのが苦痛だと思うほど嫌になる時が。それとも、この顔を見るのが苦しいと、胸が、心が痛いと思う程、好きになる時が。






 若いなーという中戸さんの羨ましげな感想にも胸を張って頷けそうなほど、俺の回復は早かった。念の為にとレントゲンも撮ったが、骨にも異常はないらしい。俺の身体は、運動能力には長けていなくても、頑丈にはできているようだ。そのわりに、冬から春にかけて二度も寝込んだけど。
 ただ、痣や怪我が治っても、なかなか消えなかったものがある。割れ鐘のような拍手の波。耳の奥底に残ったそれは、しばらくの間、ふいに襲ってきては、俺を自己嫌悪の渦に叩き落してくれた。
 そんな時、思い出すと妙に浮上できる言葉がアレだというのは、あまり認めたくないけど事実で。
 ――俺はあの時の俊平くん、すごく格好良いと思ったよ。




 トラウマになりそうな拍手の音も、中戸さんが医務室に現れた時のそれだと思えば、少し違って聞こえるような気がするのも、気のせいではないのだろうか。








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