待つということ 02

 「あ、そうだ。切符のお金」
 中戸さんの代わりにビールを消費していた俺は、思い出してダイニングテーブルから立ち上がろうとした。麦茶で付き合ってくれていた中戸さんは、明日でいいよと俺を押しとどめた。
「実はまだ買ってないんだ。今日髪切った帰りに寄ろうと思ったら閉ってたから。明日買ってくる」
「なんだったら俺が買ってきますよ。明日もバイト休み取ってるし」
 バイトのシフト希望を出す時点ではまだ中戸さんの帰省がいつになるか聞いていなかったので、盆中はずっと休みになるよう希望を出していたのだ。普通なら嫌な顔のひとつもされるところだが、試験期間もずっと出ずっぱりだったせいか、俺の希望はすんなり通った。
「いい、いい。土産も見てくるから」
 中戸さんが麦茶のグラスを持ったまま、軽く手を振る。半分ほど残っているお茶が、たぷたぷと揺れた。
「でも、俺も手土産用意しなきゃ」
「そんなのいいよ。俺のために来てもらうんだし。気になるなら俺が用意しとく」
「そんな……」
「いいから」
 遮るように言って瓶を手にすると、中戸さんは俺のグラスにビールを注いだ。
「そこまで用意させるなんて、ついてきてもらい辛いよ」
 切符代もいいんだけど、と各自で持つと決着のついたことまでひとりごちる。
「そういうわけにはいきませんよ。だいたい、今回のことは俺が無理に……」
 言わば自分の安心のために行こうとしているのだ。しかし、中戸さんは俺にみなまで言わせなかった。
「本当はすごく心強いんだ。ありがたいと思ってる」
 グラスから溢れそうなビールの泡みたいにふんわり微笑まれると、俺は「いえ」とか「そんな」なんてことしか言えなくなる。
 それから中戸さんは、少し辛そうに笑顔を翳らせた。
「ごめんな」
「なっ、何謝ってんですか! 俺だってどさくさに紛れて柴森さんの手料理楽しみにしてんですから!」
「口に合えばいいけど」
「人が作ってくれたものは何でも美味しいです」
 俺の同行の申し入れを承諾してからの中戸さんは、常にこういうスタンスだった。まるで俺の申し出が、自分が希った結果ででもあるかのように。
 でも、そうなだったのかなと自惚れられるほど、中戸さんが俺を頼りにしているとは到底思えなかった。だからと言って、今以上の策を講じることもできない。結局は、どんなに嘘くさかろうとも、中戸さんの「頼りにしてます」発言にしか付け入るところはないのだ。あとはここぞという時、本当に『頼りになる奴』になるしかない。
 もちろん、そんな事態に陥らないに越したことはないのだけど。そしてその為に同行するのだけど。
「でも、よく分かったね。俺が帰省するつもりだって」
 顔を仰ぐ俺を見て、中戸さんがクーラーのリモコンを操作しながら思い出したように言った。稼働音が大きくなって、前髪に当たる風の勢いが増す。
「うちにも仏壇ありますから」
 ビールはやっと四分の一にまで減ったところだった。疲れが出てきているのか、妙にアルコールの回りが速く、グラス三杯目くらいから飲み干すのが辛くなっていた。もともとあまり酒に強い方でもない。
「俊平くんは帰らなくていいの?」
「うちは誰かの新盆ってわけでもないし」
 言ってから、慌てて付け加える。
「たまには親父一人に親戚の相手させても、バチは当たらないでしょ」
「ひっどいなぁ。おとうさんかわいそー」
 盆の帰省と口にはしても、中戸さんの養父の新盆だということは、今まで意識的に避けていた。そろそろ頭が回らなくなってきているらしい。
 そんなことを考えながら、朗らかに笑う中戸さんを見て安堵した以降の記憶がない。可哀相は俺の方ですよ、とか、どうせ帰っても友達と遊んでるんでしょー、とか、そんな他愛のない言い合いを続けたと思うのだが、何がどうなって俺が中戸さんの部屋で寝るに至ったのか、まったくもって思い出せない。
 何もしてないよな、俺!
 テーブルの上のメモを取り、頭を抱える。明日一緒に彼の実家に行くから、心配するだろうと思ってこんなメモを残したのだろうが、わざわざ『遅くなる』と宣言されると、俺と顔を合わせるのが嫌なんじゃないかという気もしてくる。
 久々に露になったうなじは白かった。髪に隠れがちだった顎のラインはすっきりとしているのに頬は柔らかな曲線を描いていた。痩せてしまった身体は寝巻代わりのTシャツの中で泳いでいた。髪を切って、幾分幼く見えるようになった気もした。それでも、だいぶ男性的になったと思ったはずなのに。
 正直、儚げな横顔や柔らかな笑顔にくらりときたことはある。ある、が。とうとう好青年然とした姿にさえときめくようになったのか、俺!?
 自分の状態から鑑みるに、一線を越えていないのは確かだ。でも、中戸さんのベッドを占領していて、当人に遅くなる宣言をされるというこの状況。何か口走ったり迫ったりしたのではないだろうか。
 寝てしまった俺を仕方なく自室に運んでくれた中戸さんを抱きしめて離さなかったとか、寝言で好きだとかなんだとか言ったとか、あまつさえキスくらいは無理強いしたとか。やましい気持ちはなかったとはいえ、俺には、出会ったその日に「行かないで」とのたまい、彼の手を放さなかったという、記憶に残っていない前科がある。やらかしていないとは言い切れない。前回のように人間違いだと思ってくれればいいのだが、名前でも呼んでいたら……。
「うがあ!!」
 俺は今度は仰け反った。
 いや待て。落ち着け。思い出せ。呪文のように唱えながら、冷蔵庫に向かう。喉がカラカラに干上がっていた。
「酒のせい、だ、よな」
 喉に手を当て、ビール瓶に問いかける。
 中戸さんがしくれたのだろう。ダイニングテーブルの上もキッチン周りも、綺麗に片づけてあり、昨夜の痕跡を匂わせるようなものは、流しの下に置かれたビール瓶くらいしかなかった。
 当たり前のごとく返事はなかった――あったら怖い――が、とりあえず麦茶を取り出してコップに注いだ。一気に飲み干すと、たらたらと締まりの悪い水道水のように垂れていた汗が、蛇口をひねったようにどっと噴き出してくる。
 とりあえず汗を流すことにして、風呂場へ向かった。
 アルコール摂取でいつもより寝汗をかいただろうから、後で中戸さんの布団のシーツも洗っておこう。もう昼を過ぎているが、最近の天候なら夕方までには乾くはずだ。
 お湯に打たれながらすべきことを考えていると、幾分冷静になってきた。
 何か言ったりしたりしていたとしても、覚えてないことにすればいい。事実、覚えていないのだから。中戸さんに何か勘繰られるようなことを言われたとしても、知らぬ存ぜぬを通せばいいのだ。しばらくは中戸さんに嫌なプレッシャーを与えることになるかもしれないけれど、俺が知らんふりを続ければ、鈍感な彼のことだから、酒のせいで一時的におかしくなっていたのだと思ってくれるだろう。
 第一向こうだって、同居人以上の関係を求められていると思えば、変に俺を刺激したくないはずだ。俺が飲みすぎると記憶を失くすことがあると知っている中戸さんは、殊更変わらぬ態度を取ってくるに違いない。それか、黙って距離を置いてくるか、だ。たとえ何かが起こっていても、俺に夢だとでも思い込ませるように。
 そこまで考えて、ふと思った。
 じゃあ、あのメモは?
 俺の顔を見るのが気まずいなら、メモなど残さずただ遅く帰ればいい。少なくとも、俺が彼の立場ならそうする。明日一緒に出掛けるとはいえ、わざわざ『気にするな』と断るのも余計に何かあったと示唆するようで落ち着かない。
 そう、落ち着かないのだ。妙な胸騒ぎは、あのメモを見た瞬間から始まっている。
 俺は、これに似た感覚を以前味わったことがあるような気がした。状況は違うけれど、漠然と押し寄せて来る不安。文字から滲み出る不穏な空気。
 そうだ文字。
 俺はコックをひねってシャワーを止めると、身体を拭くのもそこそこに、浴室から駆け出した。
 中戸さんが俺に手書きのメモなんか残したのは、後にも先にも帰省した時だけだ。宣言するような書き方。綺麗すぎる文字。どちらも、以前彼が帰省した時に残されていた書き置きを俺に思い出させ、恐れと焦りを掻き立てるのだ。
 自室に投げていた鞄から携帯を取り出す。中戸さんの番号に掛けると、繋がった先はやっぱり留守番サービスセンターで。
「くそっ! やられた!」
 三回同じアナウンスを聞いた俺は、悪態とともに携帯を畳に叩きつけた。
 きっと全部嘘だったのだ。十五日に帰省するという予定も、俺を連れて行くと柴森さんに電話したというのも。家庭教師のバイト先のお宅で、お礼にビールを貰ったという話さえも。
 昨夜、ごめんと言っていた彼の表情を思い出す。少しだけ辛そうな、申し訳なさそうな、翳りのある笑顔。
 たぶん、俺に迷惑をかけないようにとの考慮からだろう。中戸さんは酒に強くない俺を酔い潰れさせて、一人で行ってしまったのだ。
 彼が胃炎を起こすほど嫌悪している、彼の実家へ。












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