待つということ 06

 タクシーを降りると、背を丸める俺とは対照的に、中戸さんは思い切り背を伸ばした。
「そっちこそ、大丈夫だったんですか?」
 荷物を持ったまま夜空に両腕を突き上げる中戸さんに、人影がないのを確認してから問う。もう少しで部屋なのに、待ち切れなかった。
「うん、大丈夫。着いてすぐアイスコーヒー出してもらってゲー、で病院だしね」
 中戸さんはマンションのエントランスに歩みこみながら、おどけて言った。
「ほんと、実家には一時間もいなかったんじゃないかな。実家で入ったところは仏間と台所と、吐くために行ったトイレだけ。ずっと母親から見えるところにいたから大丈夫だよ。病院行った後も直接駅に戻ったから墓参りもしてないんだ。何しに行ったんだか」
「盆は仏さんも仏壇に帰って来てるはずだから、仏壇に参っとけばいいんだって、うちの馬鹿親父が言ってましたよ」
「あはは。うまいこと言うね」
 エレベーターのボタンを押しながら、中戸さんが朗らかに笑う。柴森さんは帰る途中にも倒れるんじゃないかと心配していたが、点滴のせいか元気が出てきているようだ。
 中戸さんの話には、まだいくつか嘘がある。柴森さんに聞いた話によると、中戸さんは柴森さんがトイレに立っている間にえづき始め、台所の流しに嘔吐していたらしい。次男が一部始終を見ており、彼女に胃液に血が混じっているようだと報告したのも、その人物だという。
 その後トイレでも吐いたかもしれないが、急におかしくなった中戸さんを見ていた人間がいるのだ。指なんて突っ込まなくても嘔気は来ていたし、柴森さんの目の届かない時間もあった。
 柴森さんがお手洗いに行くまで、中戸さんはアイスコーヒーに口を付けていなかったそうだ。それが戻ってきたらグラスは空になっており、その場に義兄がいたということは、何らかのプレッシャーをかけられたから、覚悟を決めて飲み干したのだろう。
 エレベーターのかごが到着して、中に乗り込む。
「あーあ。今頃ヘラっと帰宅して、『もう行ってきたよー』って言ってる予定だったのに」
 よけいな心配かけちゃったね。ごめん。
 狭いかごの中、蛍光灯に照らされた顔は、蒼白く見えた。
 中戸さんは、俺が何も気付かないまま終われば、手を煩わせることも心配をかけることもないと思ったのだろう。でも。
「……後から知るのは、もっと辛いです」
「ごめん」
 部屋のある階に着いて、俺たちはエレベーターを降りた。誰にも会うこともなく部屋に到着し、俺が鍵を挿して扉を開ける。
「でも、どうして分かったの? 今日実家に行ったって」
 中戸さんが俺の後について靴を脱ぎながら訊いてきた。
「母親が電話する前から携帯に電話くれてたみたいだけど。ひょっとして昨日から薄々勘付いてた?」
 俺はダイニングに続くガラス扉を押し開きながら答える。
「いや、今朝起きてからです。あの書き置きを見てなんとなく……」
 中戸さんは「しまった」という顔をした。その表情に、溜息をつきたくなる。
 この人は懲りてない。いや、後悔はしているのだ。やり方がまずかったと。でも、また同じようなことがあったら、俺や周囲に悟られないよう、一人でやり過ごす道を探すだろう。
「馬鹿なことしたなぁ。昨日、俊平くんがあんなこと言うから書いてったのに。当の俊平くんは記憶ないって言うし。本当は覚えてないっていうのも嘘で、全部知っててわざと言ったんじゃないの?」
 墓穴を掘ったようなもんだ、と恨みがましそうにダイニングに入って来る中戸さんに、俺は眉根を寄せて問い返した。
「それって、俺がここで寝てて一度起きた時のことですよね。俺、一体何言ったんですか?」
 怖いが聞かないわけにもいかない。ここで「さあね」とうそぶいて見せれば少しは頼りがいがあるように見えるのかもしれないが、あいにく俺は、酔った時の言動にそこまで自信が持てない。自分が何を言ったのかを知るチャンスは今しかないかもしれないのだ。中戸さんが同居解消を考えるようなきわどいことは言っていないようだが……。
「本当に覚えてないの?」
「はい」
「まぁ、俊平くんだしねぇ」
 中戸さんは、何気に失礼に聞こえるようなことを感心したように呟いて、昨夜の俺の様子を話してくれた。
 中戸さんに左肩を揺すられた俺は、ぴたりと鼾を止めて顔を上げたらしい。
「ちゃんと横になって寝た方がいいよ。今日はもうお開きにしよう」
 そう言ってダイニングテーブルの上を片付けようとした彼の腕を掴んで、俺は言った。
「黙っていなくなるのだけはやめてください」
 中戸さんは、密かに立てた計画がすべてバレているのではないかと息を飲んだ。呂律はともかく、俺は赤らんでもいなければ目が充血しているわけでもなかったのだ。
「帰省のときはいつも、何処にいるのか、いつ帰るのか、俺は何も知らされなくて」
 今回はちゃんと話してるじゃない。
 中戸さんは、そう言いかけて飲み込んだ。俺の顔は素面も同然で、その俺に知らせずに済ませようとしていることは事実で。これ以上下手に取り繕うことは得策ではないような気がした。
「……待つのは、辛いです」
 俺は、掴んだ腕を見つめて振り絞るようにそう言うと、反論は受け付けないとばかりに「それじゃあ、おやすみなさい」と手を振って、再び頭をテーブルに沈めた――。
「だから書き置きくらいしとこうかって気になったんだけど……」
 中戸さんは水道水を飲みながら情けない表情を浮かべたが、話を聞いて情けなくなったのは俺の方だった。なんて恥ずかしい愚痴をこぼしてくれやがったんだ、酔っ払った俺!
「つら……かった?」
 顔に上ってくる血液を抑えなければとおろおろしていると、遠慮がちに中戸さんが訪ねてきた。
「え?」
「その……待つの辛いって言ってたから。辛い思い、させたかな、と」
 辛くないわけがなかった。
 まぁ、でも。
「気付かれずに済むなら、その方が俊平くんのためにはいいと思ったんだ。でも、却って辛い思いさせたなら……ごめん」
 人に深入りされるのを極端に嫌う節のあるこの人が、俺が心配するのを、こうして警戒せず受け入れてくれると分かっただけでも。
「もういいです」
 何故か赤くなっている中戸さんが可愛らしくて、俺は怒ったように答えた。
「でも、どっちがいいかは中戸さんに決められることじゃないですから」
「そう、だね」
「そうです」
 それより、きのこ雑炊作っといたんだけど食べます? と訊くと、中戸さんは嬉しそうにうなずいた。
「やったぁ! 俺好きなんだ。俊平くんの作ったあれ」






 後日、柴森さんから届いたクール便には、たくさんの野菜や漬物の他に、手作りの餃子やコロッケ、ハンバーグなどが冷凍されて、俺への礼状とともに入っていた。












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