待つということ 05

 声を聞いた時には足から力が抜けたが、改札の向こうにその姿を見止めた時には身体中から力が抜けそうになった。心筋まで弛緩して、心肺停止にでもなったら救急車を呼ばれてしまう。そうなったら中戸さんのことを言えないと踏ん張ったが、今度は踏ん張りすぎて一歩も動けなくなった。
 さらさらと揺れる前髪の下には、どこか遠くを見るような眼差し。でも、その双眸はきちんと焦点を結んでいて、危うげのない足取りで改札を抜けてくる。微かに弧を描く口許が、俺を見つけて大きく開かれる。
 一点の曇りも悟らせないいつもの笑顔をたまらなく懐かしく感じて、俺は必死で顔面の筋肉に力を入れた。そうしなければ、決して人通りの少なくないこの場所で、子供みたいに泣いてしまいそうだった。
 同居しているとはいえ、中戸さんの顔を見ない日なんてざらだ。一週間くらい声すら聞かないことだって何度もあった。中戸さんの養父が亡くなった時には、もっとずっと長い間、彼の所在は不明だった。それなのに、今日ほど長く離れていたことは、未だかつてなかったような気がした。まるで、何カ月も安否の分からなかった相手とやっと再会できたかのような、そんな気分だった。
 嬉しそうに手を振る中戸さんの視線を追って、何人かの通行人が俺を振り向いて行く。ギャルギャルしい女の子の集団。カップルらしい男女。小さな子どもの手を引いた母親。暑苦しそうにネクタイを緩めるサラリーマン。新幹線の早得切符の広告を背にした俺は、手を振り返すこともできずに突っ立っていた。それを見て、皆見てはいけないものを見たかのように視線を逸らす。人違いかなと思ったのかもしれない。
 もちろん人違いではないと分かっている中戸さんは、まっすぐ俺のところにやって来ると、がばりと頭を下げた。
「ごめん。嘘ついて。やっぱ怒ってる……よね」
 逸らされる視線から、なんとなく察してはいた。今の俺は、目があった奴全員殺してやる、とでも言わんばかりの憤怒の形相をしているのだろう。
 寸前で回れ右しなかった中戸さんは、俺の内心は違うところにあると分かっているのか、それとも観念しているだけなのか。
「今は、いいです」
 俺はそれだけ言って、中戸さんに背を向けた。言いたいことも問い質したいこともたくさんあったけど、今はこれ以上言葉を発すると、涙声になりそうだった。
 学生だろうか。やっと始まった夜を喜ぶようにはしゃぐ汗ばんだ集団に続いて、駅舎を出る。そのままタクシー乗り場へ向かおうとすると、後ろから袖を引かれた。
「何か食べて帰ろう。奢るよ」
 俺はかぶりを振った。
「食えるもん、ないでしょ」
「でも俊平くんが……」
「入ると思います?」
「……ごめん」
 うつむいてしまった中戸さんに、俺は溜息をついた。
「中戸さん、ここ二、三日、胃薬飲んでなかったでしょ。吐き気止めだけ飲んで」
 返事はなかったが、今日一日掃除していた俺は、残っていた薬の量から飲んでいないことは確信していた。
 震えないよう、俺は低い声で続けた。
「今朝は吐き気止めも飲んでいない」
 中戸さんが顔を上げる。その驚愕に見開かれた瞳を捉えて俺は言った。
「わざとですね?」
 服薬を中止していたのも禁止されていたコーヒーを飲んだのも、自身の吐き気を誘うためだ。吐き気止めを飛ばすのを今日だけにしたのは、日に三回食事前に服用する薬だったので、薬効時間が短いと判断したからだろう。実際、今の中戸さんは、吐き気止めを一回飛ばしただけで、お粥でも吐きそうになる。
 中戸さんは自分の体調不良を利用して、義兄たちから逃れる計画を立てていたのだ。
「全部お見通しか」
 今度は中戸さんの方が溜息をついて降参した。荷物を肩に掛け直すと、俺を追いこして歩き出す。
「コーヒー飲んでもちっとも上げてこなくて、自分で指突っ込んで吐いたんだけどね」
 謝って喉を突いてしまったせいで、血が混じって予想以上に大ごとになってしまったと中戸さんは自嘲した。
「母親には悪いことした」
 柴森さんは表面上しっかりしていたが、中戸さんの姿が見えないところでは、申し訳ないほどうろたえていたそうだ。本当の母親ではないから、体調が芳しくないのに無理をさせることになったと。
「分かってるなら、そういうこと二度としないでください」
「……ごめん」
 途中、中戸さんはコンビニに寄って俺にジンジャーエールを買ってくれた。研究室の合宿ででもするのか、コンビニ袋には花火も入っていた。
 タクシーの中でジンジャーエールを受け取りながら、冗談で「これにはおかしなもの混ざってないでしょうね」と睨みつけると、「そっちもバレてたか」と苦い顔をされた。
「やっぱり。いくら俺がアルコール強くないって言っても、缶ビール二缶弱の量で正体失くすなんておかしいと思ったんですよね」
「薬とかは入れてないよ。俊平くんが席立ってる間に、ちょっとアルコール度数高いビール注ぎ足してただけ。案外分かんないもんだね」
 どうりでなかなか減らなかったわけだ、と俺はタクシーのシートに身を沈めた。悪酔いしないようつまみを出してきたり、トイレに行ったりと、昨夜の俺は何度も席を立っており、その度にグラスは中戸さんによって満たされていた。思い起こしてみれば、つまみにとスナック菓子を漁りにいった二杯目の途中から、少し味が変わっていたかもしれない。
「失くしてたの? 正体」
「だから中戸さんの部屋に転がされてたんじゃないんですか、俺?」
 え? え? やっぱり俺、何かやったわけ?
「や、まぁ、潰れて寝ちゃったからだけど」
 午前三時近くに中戸さんが用足しに行って戻って来ると、俺はダイニングテーブルに突っ伏して鼾をかいていた。しかし、何度か揺すると、頭を上げてそれはそれはしっかりした顔で何か言い、
「それじゃあ、おやすみなさい」
 再び顔を伏せて本格的に寝に入ったのだそうだ。
「勝手に部屋に入るのは憚られたから、俺のベッドに運んどいた」
 俺は例のごとくダイニングでごろ寝したから。
 安心してとでもいうようにそう付け加えて、中戸さんは微笑んだ。タクシー運転手の手前、「何もなかったよ」なんて怪しげな発言は避けたのだろう。それか、板間で寝るのは慣れているという意味だったのかもしれない。夏の初めに自室のクーラーが壊れていた中戸さんは、よくダイニングや玄関の床に転がっていた。
「それは……すいません」
「いいよ。俺が意図的に潰したんだから。こっちこそごめん。二日酔いとかならなかった?」
「それは大丈夫でしたけど……」
 それよりも、信用されていなかったことに傷付いた、とは言えない。本気で頼ってきているわけではないと気付いていたのに、易々と騙された自分にも失望した。












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