待つということ 04

「何かあったんですか?」
「あの子、こっちで具合悪くなっちゃって、今病院に連れて来てるの」
「病院って……」
「着いてすぐ吐き気をもよおしてね、しばらく休ませてたんだけど、顔色は優れないし、出て来るのが胃液ばかりで血も混じってるように見えたから、無理矢理連れてきたの。あの子、最近食べてなかったのじゃない?」
「夏バテしてるようなことは言ってましたけど」
 まさかずっと吐き戻ししてて、病院で胃薬と吐き気止め貰って飲んでますとは、俺の口からは言えない。
「病院でも夏バテやストレスで胃が荒れてるんだろうって言われたわ。血は喉の粘膜がちょっと切れて混じっただけだろうから心配ないとも言われたんだけれど……それって度々吐いてたってことよね。だから二、三日休んでいったらって言ってるんだけれど」
 冗談じゃない。やっと少し食べれるようになったばかりなのだ。二、三日も実家にいたら、元の木阿弥どころか悪化しかねない。
 俺は意味もなく受話器を握りしめた。
「中戸さんはなんて言ってるんですか?」
「レポート作成があるとかで、どうしても今日中に戻らなきゃいけないってきかなくて」
「それは……そうでしょうね」
「やっぱり休めそうにないのね」
「俺も詳しいことは分かりませんけど、他の先輩とそういう話してるの聞いたことあるから」
 柴森さんはふうっと悲しげな息を吐いた。
「私がアイスコーヒー出したのもいけなかったのよね。あの子がすぐ口を付けなかったのも、体調が悪かったからだったのに気付かなくて」
 中戸さん、アイスコーヒー飲んだのか。
「あの、俺、中戸さんができるだけ無理しないよう見てますから」
 飲んだ本人はどうなるか予測できなかったわけじゃないだろうから自業自得です、と言ってあげたかったが、さすがにそれはやめておいた。
「なるべく栄養のあるもの食べさせて、こっちでも病院連れて行きます」
 俺がそう言うのを待っていたのだろう。続く彼女の言葉は申し訳なさそうだったが、やっと少し安堵できたというふうにも聞こえた。
「……ありがとう。ごめんなさいね、蒔田くんだって自分のしなきゃいけないことがあるでしょうに」
「いえ、俺は今のところ大したことないし、中戸さんにはいつもお世話になってますから」
「迷惑ついでに、今日、最寄りの駅まであの子を迎えに行ってやってくれないかしら。本人はタクシーで帰るなんて言ってるけど、ちょっと調子が良くなったら、すぐにケチって歩いて帰りそうだから」
「分かりました。責任持ってタクシーに乗せます」
「ありがとう!」
 柴森さんは弾むようにそう言ったが、俺の方が礼を言いたいくらいだった。駅までは、なんとしてでも迎えに行きたかったのだ。
「徒歩でもいいの。誰かが一緒なら。でも、何かあった時あなたが大変だろうから、タクシー使ってね。往復料金グンジくんに持たせておくから」
「それくらい大丈夫ですよ」
 もともとその予定で予算に入れている。しかし。
「いいの。本当は私が付き添って行きたいくらいなんだから、それくらいさせて」
 そう言われて、素直に受け取ることにした。
 あらかじめ言うことを考えていたのだろう。柴森さんは縦板に水を流すように続ける。
「今点滴受けてるから、一時間後くらいにあの子の携帯に電話してやってくれる? 自分からは絶対しないと思うから。蒔田くんのことは、私からあの子に話しておきます」
 さすが中戸さんを育てた人だ。変なところで人の手を拒む彼の性格をよく見抜いている。なんでああ、事情を知っている人間には意固地なくらい頼ろうとしないのか。
 俺は念の為、中戸さんが嘔吐した時の様子を詳しく聞き、互いにお願いしますと言い合って電話を切った。
 しかし、一時間後に電話を掛けてもまだ携帯の電源は切れたままで。何度も掛け直してやっと繋がったのは、シーツもすっかり乾いた頃だった。
 そして緊張感のない声を聞いた俺は、相手は病人だというのに怒鳴りつけてしまった。
「こンの大嘘つきがーっ! 病院で点滴って、何やってんですか! 柴森さんに俺から電話がいくって聞いたでしょう!? 携帯の電源入れといてくださいよ!」
「ごめんごめん。やっぱ場所的に切っとかなきゃいけないかと思って切ったの忘れてた」
 あっけらかんとした物言いに、腹立ちのあまり声が詰まりそうになる。
「ったく……。胃は大丈夫なんですか?」
「ん、大丈夫」
 中戸さんは、あくまで普段通りに返してきた。あのニコニコ顔が見えてきそうだ。今の彼にそれだけの余裕があることに安堵して、俺の気分は少し落ち着いてきた。しかし。
「今はどこに?」
「今? 駅のホーム」
「新幹線の?」
「ううん、まだ鈍行の」
「何時にこっちにつきます? 俺、駅まで迎えに行きますから」
「あーそのことだけど、今回はいいよ。なんもなかったし」
 こんな風に言われては、やっと冷めかけていた俺の怒りも一気に沸点を越すというもので。
「ゲロ吐いて病院運ばれといて、なんもなかったって言いますか! いいですか? これは中戸さんのためじゃなく、俺のためです。中戸さんに胃潰瘍で入院でもされたら、俺ひとりで家賃どうすりゃいんですか! そっちはバイトもできないうえ、入院費でいっぱいいっぱいになるでしょ!? だいたい俺は、あんたじゃなくて柴森さんと約束してんだ!」
「は、はい。そうですね。すみません、ごめんなさい」
 携帯に向かって平謝りに謝る中戸さんの姿を想像してできるだけ気を静め、俺は努めて冷静に聞こえるよう要求を口にした。
「分かったら素直に教えてください」
「えーっと、十九時五十三分着だったかな」
「分かりました。俺、改札出たとこにいますから」
 それじゃあ、と一方的に通話を切る。まだ謝罪の言葉は聞こえていたし、一刻も早く確認したいことも山ほどあった。けれど、長く話しているとやっぱり来なくていいと断られそうな気がして。
 でも、とりあえず声が聞けて良かった……。
 汗に濡れた携帯をTシャツに擦りつけながら、俺はへなへなとダイニングの床にへたりこんだ。椅子に座って掛けていたのに、いつの間にか激昂して立ち上がっていたのだ。その反動か、足に力が入らなくなっていた。












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