テレパシー 06

 中戸さんは結局、カップ麺にリゾットの残骸となったおこげを入れて食べ始めた。俺は、ついでに、と中戸さんが淹れてくれたコーヒーをちびちび飲んでいる。
「すいません……」
 うまそうな音を立てて麺を啜る中戸さんに謝ると、彼はきょとんとして顔を上げた。麺の尾が、ちゅるんと音を立てて桜色の唇に吸い込まれる。
「俊平くんが謝ることないよ。俺が邪魔したんだし。もともと作ってくれる義理も義務もないんだから」
「でも、励みになるって言われたのに……」
 わざわざ待っていて言ってくれたというのに、その途端このザマとは。
「あ、ひょっとして、室生さんのこと考えてた?」
「え、真衣?」
 思わぬところで思わぬ人の名前が出てきて、俺は面食らった。
「怖い顔してた時。俺、同棲してたのを嫌う男もいるなんて言っちゃったから、室生さんのことが心配になったのかなぁと」
「や、その点は別に。真衣は逆に、そういうのを気にする男は嫌いそうですから」
 彼女には父親に似たのか勝気なところがあり、そういう小さい男はこっちから願い下げよ! くらいは言いそうな女性だった。
「……でも、後ろめたい思いはさせてたかも」
 俺は思い切ってもう一度口に出してみることにした。
「ほら俺、真衣の親に黙って彼女の部屋に住んでたから」
 やっぱり軽蔑されただろうか。中戸さんの反応が怖くてコーヒーに落とした視線を、ちらと上げる。
 中戸さんは嫌悪を露にするふうもなく、ラーメンだかおこげだかを飲み下して言った。
「それなら俺もだよ。それぞれの奴が親にどう話してたかは知らないけど、本当のことなんて言えるわけないでしょ、普通」
 元はノーマルだった人がほとんどだから、家族どころか学校外の人と接する時でさえびくついていたのではないかという。
「それは、中戸さんが強制したわけじゃないでしょう」
 みんなやりたいようにやった結果ではないか。いわば彼らの自業自得。
 それに、一番後ろめたい気持ちを抱えていたのは、きっと中戸さんだ。
「それを言うなら俊平くんだって、室生さんから誘われたんでしょ、同棲に関しては」
「それはまぁ、そうなんですけど。でも、箱辺さん見てたら、俺の気付かないところで悩ませてたのかなと……」
 有川に嫌われまいとしてなのか、奴の喜びに水を差さないようにと考えてなのかは分からない。でも、箱辺さんは一人で解決しようとしているように見えた。
「俊平くんは優しいね。箱辺もだけど。室生さんもそうだったのかもしれないけど、あんまり一人で抱え込むと、パンクしちゃうよ」
「だから箱辺さんにああ言ったんですか?」
 ――ご家族に言えないようなことなら、しない方がいいと思う。
「余計なこと言ったと思うんだけどね」
 自嘲気味に言って、ずずずっとラーメンを啜り込む。
「でも箱辺さんは嬉しかったんじゃないかな。中戸さんのこと見直してたみたいですよ。親身になってくれたって」
「本当に箱辺のことを思うなら、有川の前で言ってやるべきだったんだろうけど」
 ああ、だから有川に言ったのか。そんなに好きなら、家族に対して後ろめたい思いを彼女にさせるなと。
「箱辺さんは幸せですね」
 そこまで中戸さんに考えてもらえるなんて羨ましい。情けないとは思うが、ちょっと妬ましくさえある。
「幸せ者は有川でしょ。好きな子にあんなに真剣に考えてもらえて。まぁ、俺もだけど」
 中戸さんはそう言うと、またずるずると麺を啜りあげた。
「中戸さんが?」
 現在進行形で疚しいことをしていないにもかかわらず、母親に後ろめたさを感じ続けている中戸さんが?
 中戸さんは口の中のものをごくんと飲み下しながら、こくんとうなずいた。
「だってほら、俊平くんこそ、いつも親身になってくれるじゃない。俺、お節介だと思ったことは一度もないよ」
 そう言って、にっこりと微笑む。
「我慢してることがあったら、パンクする前に言ってね。俺、俊平くんとはできるだけ長く一緒に暮らしたいし」
 だから、俺が有川に話したことや夜食のこともお座なりにせず、きちんと言葉にしようと待っていてくれたのだろうか。
 我慢していることなら山ほどある。その笑顔を一人占めしたい。今すぐ抱きしめて、その唇に口付けてみたい。それ以上のことはよく分からないけれど、期限なしで傍にいたい。
 でも、そんなことを言えば、今の中戸さんの気持ちも消滅してしまうだろう。できるだけ長く俺と暮らしたいだなんて希望は、俺の前に置かれたコーヒーのように黒く濁っていくに違いない。
 だけど、たとえ違う希望を抱いていても、同じ想いを共有できているのなら。
「じゃあ、とりあえず院試頑張ってください」
 俺は、残っていたコーヒーを一気に飲み干して言った。
「中戸さんが院に進めなくて住み込みのバイトでも始めた日には、同居もできなくなりますから」
 カップ麺を食べ終え、コーヒーのマグを手にしていた中戸さんが、ぐっと詰まる。
「うっ、そうでした」
「俺も路頭に迷うの嫌ですから、全力で応援しますよ。と言っても、夜食作るくらいしかできないけど」
「くらいじゃないよ。おにぎり握って置いといてもらえるだけで、すごくありがたいもん」
「俺は、中戸さんにそれだけ食欲が出てきたことがありがたいです」
「はは。でもほんとありがとね。俊平くんの作ったもの食べてると、できるだけどころか、ずっと一緒に住みたくなっちゃう」
 中戸さんはまったく照れる様子もなく俺を舞い上がらせて、今度こそコーヒーに口を付けた。
「よく言いますよ。俺の作ったお粥よりコーヒー飲みたがった人が」
 俺は今度こそトマトになっているであろう顔を見られないように、空になったマグを持って立ち上がった。
 中戸さんにああ思わせ続けるためなら、ささやかで大それた欲望など、なんとか我慢してみせる。
 当の中戸さんは明後日の方向を見ながら、あれはー……と言い訳するのに窮している。
「まぁいいですけどね。中戸さんのお世辞が大袈裟なのは今に始まったことじゃなし」
「違っ、お世辞じゃないってば。ううう、こんな時こそテレパシーでも使えれば、俺の言ってるのが大袈裟じゃないって伝わるのに」
 中戸さんは頭から電波でも飛ばすように、キッチンカウンターにいる俺に向け、両手をつっぱるように突き出してくる。
 俺は笑いながら、コーヒーをもう一杯、サーバーから頂いた。
「中戸さんは時々使えてるような気がしますけどね」
 もっとも、中戸さんの場合は受信のみだから、テレパシーとは言わないのかもしれないが。
「え、いつ? どんな時?」
 俺はその質問には答えず、時折、不思議と俺の欲しい言葉をくれる人に、コーヒーのおかわりを勧めた。






 後日、箱辺さんが両親に同棲の許可を得ようとしたところ、子どもができたらどうするのだと箱辺さんの父親が大反対。すかさず有川が電話し、「子どもができたら学校辞めて働きます!」と言ったら、「親に通わせてもらってる大学を簡単に中退すると言うような親不孝者に、父親が務まるか!」とよけい怒られたという。
 夏休み中ということもあり、箱辺さんはそのまま実家へ強制送還させられ、二人はこっそり計画していた沖縄旅行も延期せざるを得なくなったのだった。












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