テレパシー 05

 バイトを終えて帰宅すると、俺は荷物を置いてキッチンスペースへ向かった。炊飯器が空だったので、冷凍させていた白ご飯をレンジに入れ、冷蔵庫を探る。野菜庫を開けたところでトマトが目に付いたので、それを使うことにした。
 フライパンに油を敷き、すりおろしたにんにくを熱していると、洋間の戸が開いた。
「おかえり。バイトお疲れさま」
「起こしちゃいました?」
 うるさかっただろうか。伸びをしながら出て来た中戸さんに、俺は申し訳なくなって問いかけた。この時間帯、中戸さんはたいてい寝ている。たとえ起きていたとしても、部屋から出てくることは珍しい。
「ううん。起きてたから」
 中戸さんは言って、すたすたとキッチンスペースにやってきた。
「コーヒーですか?」
「や、いい匂いだなぁと思って」
 鼻をひくつかせながら、俺の手元を覗き込む。顔が近い。中戸さんからふわりと石鹸の清潔な香りがして、俺はどぎまぎしながら乱暴にトマトを放りこんだ。
「あんま近寄らない方がいいですよ。俺、汗臭いし」
 ぶちぶちとトマトを潰しながら、俺は横へ逃げた。しかし中戸さんは、あろうことか俺の首筋に鼻先を寄せてきて。
「そ? 俊平くんからもいい匂いするけど。おいしそうな匂い」
「それはたぶん、バイト先でついた油物の匂いです」
 俺は中戸さんを押しのけるようにして、レンジから白飯を出した。あまり刺激の強いことを言ったりしたりしないで欲しい。こっちがトマトになりそうだ。
「何作ってんの?」
 特に気にしたふうもなく、中戸さんが訊いてきた。
「トマトリゾットです」
「俺に?」
 言われて、言葉に詰まる。
 やはり迷惑なのだろうか。俺のお節介をやめさせるために、今日は起きていたのだろうか。
 フライパンの中、水にふやける白飯のように、ふつふつと不安がふくらんでくる。
「……いらなかったら、俺が明日の朝飯にしますから」
「いらなくないよ。俺、毎日楽しみにしてるのに」
「楽しみ?」
 思わず顔を見ると、中戸さんは驚いたようにぱちくりと瞬きした。それからふっと口許を緩めた。でもそれは、どこか諦めたような笑顔に見えて、俺は焦りを禁じ得なかった。
「や、ごめんなさい。その、余計なことしてるかなとは思うんですけど、習慣になっちゃったっていうか、何かしないと落ち着かなくて。中戸さんもう元気になったんだし、必要ないって分かってるんですけど。だから、欲しくなかったら無理して食べなくていいですから」
 菜箸を握りしめて言い募る。中戸さんは、無理はしてないと言うだろう。心の中でどう思っていようとも、期限付きだからと本心は隠して。でも、俺を慮るような言い方で、やんわり拒絶してくるだろう。無理はしてないよ。だけど、俊平くんも大変だろうから、もう作らなくていいよ。
「無理はしてないよ」
 予想と違わぬ言葉に、やっぱりと思う。
「でも、俊平くんが……」
「大変じゃないです!」
 これ以上、予想通りの言葉を聞きたくなくて、俺は被せるように叫んだ。
「けど、中戸さんがいらないならやめます」
 ずっと続くわけじゃないからと、我慢して食べてくれているのなら。
 菜箸を持つ手が震える。と、中戸さんががしがしと頭を掻いた。
「ああ、やっぱダメだね。有川にあんな偉そうなこと言ったけど、自分が出来てないや」
「偉そうなことって?」
 後ろめたい思いをさせるなというアレだろうか。
 しかし、俺がそう言うと、中戸さんは「じゃなくて」と頭を打ち振った。
「ちゃんと口で伝えるようにしろってやつ」
 これじゃ俊平くんにもいつか愛想尽かされるな、とまたしても完熟トマトになれそうなことを呟いて、中戸さんが溜息をつく。
「有川から聞いた。俊平くんが世話焼きすぎたって悩んでるって。夜食に関しては、俺が美味しかったってメモ残すから作ってくれてるんだと思ってたけど、ひょっとしてこのことも悩みながらしてくれてるんじゃないかって思って」
 それで今日は帰ってくるの待ってたんだ。
 中戸さんはそう言って、少し目を伏せた。
 ああそれで、と俺はどこか他人事のように感じていた。有川に言われて、無理して起きていたのか。
「ごめん。本当ならそんなことしなくていいよって言うべきなんだろうけど。夜食、ほんと励みになってるから」
 どうやら俺は、またこの人に気を遣わせたらしい。有川に話してしまったことを後悔した。と同時に、中戸さんに話してしまった有川に腹が立った。自分さえ我慢すればいいと思っている様子の中戸さんにも。
 俺はそれらを抑え込むように、菜箸を持ったまま、自分の胸を抑えた。しかし。
「我慢……してるんじゃないですか」
 抑え込んだはずのむかつきの残滓が、掠れた声となって零れ出た。
「我慢? 俺が?」
「期限付きだから、俺の気の済むようにさせてくれてるんじゃないですか」
 自分でも、どうしたいのか分からなかった。気を遣わせたくない。お節介なこともしたくない。でも、世話を焼かずにいられない。こんな風に気を遣われると、甘えてしまう。そこに浸けこんでもっともっとと干渉したくなる。同居人という線引きを超えてしまいそうになる。
「……我慢してくれてるのは、俊平くんでしょ」
「え?」
 にんにくの香ばしい匂いに紛れるように発せられた言葉に、俺は耳を疑った。
「俺と住んでたらホモ扱いされるし、奇襲受けたり女装男とデートさせられたり、挙句気持ち悪い身の上話聞かされて心配やら看病やらするハメになって」
 言葉とは裏腹に、自嘲気味になるでもなく他人事のようにつるつると続けるから、俺は止めるタイミングをつかみ損ねて棒立ちになっていた。すると中戸さんは、つるっと聞き捨てならないことを言い出した。
「つか、気持ち悪いのは俺だよね」
 その響きは、ゴキブリって気持ち悪いよね、というくらいの気安さで。
「そんなことないです!」
 たまらず、菜箸を握ったまま彼の肩を掴む。中戸さんは、はっとして顔をうつむけた。華奢な肩をすくめて、さらに小さくなる。
「ごめん。誘導尋問……」
「何言ってんですか。俺が中戸さんを気持ち悪いと思うわけないでしょう。誰かに何か言われたんですか」
 中戸さんにこんなことを言わせるなんて、どこのどいつだ。悪意がなくても許せない。悪意があったらもっと許せない。でも、人の言うことなんて上の空で聞き流すことの多い中戸さんに、ここまで影響を与えてるというのが、一番許せない。見つけたら、クソ暑い炎天下で、圧力鍋につっこんで蒸し焼きにしてやる。
 しかし、顔も分からない相手へ闘志を燃やす俺に、中戸さんはとんでもないことをのたまった。
「違うけど。俺が昔付き合ってた奴の話した時、俊平くんすごい怖い顔したから」
「俺?」
 圧力鍋で蒸し焼きにされるべきは、俺?
 昔の男の話ということは、昼間のうどん屋の席でのことだろう。
 俺は驚愕した。隣に座っていたのに、この人は俺の顔が見えていたのか。俺自身ですら、自分の表情の変化に気付いてなかったというのに。
 俺の疑問を察したのか、中戸さんが言い訳するように説明してくれた。
「こっちに向かってきてた有川が、一瞬ぎょっとして立ち止ったんだ。それで気付いた。俊平くん、ゲイとか好きじゃないって分かってたのに。ごめん。」
「それは……そういう意味じゃなくて……」
 中戸さん自身ではなく、中戸さんの昔の男にむかついていたのだ、とも言えず、俺は中戸さんの肩から手を外し、菜箸に視線を落とした。どう弁解しても、俺が中戸さんに同居人以上の好意を抱いていることがばれてしまいそうで言い淀む。
 中戸さんはわずかに小首を傾げて、続くセリフを待っているようだったが、「あ、」と俺の斜め後ろを指差した。
「それ、やばいんじゃない?」
「え? あ!」
 フライパンに顔を向ければ、すでに水は蒸発し切っていてトマトが黒く底に焦げ付いている。ご飯もところどころおこげになっていて、もう一度水を足してもどうしようもなさそうだった。












inserted by FC2 system