テレパシー 04

 尿意はなくとも用を足してから戻ると、テーブルの上はきれいに片づけられていた。湯呑だけが四つ残っていたが、よく見れば新しいものと取り換えられている。
 中戸さんが「おかえり」と椅子を引いてくれた。それと同時に、有川がトイレに立った。箱辺さんを中戸さんと二人きりにしたくなくて、我慢していたらしい。
 ばたばたと有川が行ってしまうと、俺が座る様子を箱辺さんがじっと見ていることに気付き、俺はお茶をひと口飲んでから「何?」と訊いてみた。
 彼女は少しためらっていたが、思い切ったように身を乗り出してきた。
「その、蒔田くんは、真衣先輩と同棲する時はどうだったの? さっき『末永くと思うなら家族には話した方が賢明だ』って言ってたでしょう。真衣先輩のご家族に黙ってたってことは、そういうことは考えてなかったってこと?」
 俺は、「うん……」と口ごもった。有川の奴、箱辺さんが親に言いにくいなら、内緒で始めればいいとでも言っていたのだろうか。
「正直、考えてなかった。同棲も、長くて真衣が卒業するまでだろうと思ってたし」
「それは、卒業したら別れるつもりだったということ?」
「そうじゃないけど。真衣がこの街で就職するとは限らないじゃない。Uターン就職の可能性だってあるし、ここで就職したとしても社員寮とかに入るかもしれない」
「そういう話はしなかったの? そういう先の話。いずれ親にあった時、同棲のことはどう話すかとか」
「したかもしれないけど、よく覚えてない」
 有川が帰って来ないか確認したのだろう。箱辺さんがトイレの方を気にしながら声を低めた。
「男の人って、そういうもの?」
「そういうものって?」
「先のこととか話しても覚えてない」
「ああ、それは人によると思うよ」
 俺はちょっと安心させるように笑って言った。有川のことだから、やたらめったらに「結婚したい」とか「ずっと一緒にいたい」とか言ってるんだろう。
 先のことは分からない。でも、今に限っては、それは奴の本気の言葉だと思う。
「俺はほら、別れちゃったから」
 箱辺さんがあまりに真剣な表情をしているのでそう付け加えたが、覚えてないのはそのせいだけでもなかった。
 もともと、学費を除く生活費はバイトで賄っていた俺は、安い居抜きの学生寮に住んでいた。一方、真衣は学生用ワンルームで一人暮らし。同棲は当然のように、俺が寮を引き払って、真衣の部屋に居候するという形になった。
 親の仕送りでとはいえ、もともとその部屋の家賃や光熱費の全額を支払っていた真衣は、それらを多めに出してもいいと言ってくれたが、俺はそうするのが嫌で毎日バイトばかりしていた。家賃は今よりも安かったが、真衣が卒業するまでに金を貯めておかなければならないという強迫観念もあり、あの頃の方が躍起になってバイトをしていた。
 周りから、年上の彼女に養われていると思われるのも嫌だったのかもしれない。
 また、ペース配分が分からず、授業も取れるだけ取っていたので、いつも帰宅時間は遅く、たまに早く帰れてもクタクタで、どちらかといえば暇を持て余していた彼女の相手をするだけで精いっぱいだった。
 そんな話をされても、子守唄のようにしか聞いておらず、適当に生返事をしていた可能性がある。
「ただ後になって、相手の親に許可を貰いに行くとか、そういう努力をしてれば、急に『はい、さようなら』ってことにはならなかったんじゃないかと思ったんだ。でも、事後承諾じゃ女の子の親は良い気しなかっただろうなぁって。それだと俺、印象最悪で、どのみち別れさせれれてたかもって」
「そっか。黙ってると、バレた時にヨウの印象が悪くなるのか……」
「あくまで可能性の話だけどね」
 少なくとも、真衣の父親の場合は、親に内緒で同棲を決めた娘よりも、その上に胡坐をかいて居座った俺の方に怒りの矛先を向けただろう。
 たとえ唆したのがうちの娘だとしても、それで簡単に唆されるような男に娘はやれん。
 彼女の妹だったか姉だったかが彼氏を家に招いた時、気に入らなかった父親がそう言ったという話は、なんとなく覚えている。
 そうだ、だから俺たちは内緒で同棲を始めたのだった。すっかり忘れてたけど。
 こうやって改めて思い起こしてみると、俺は追い出されて当たり前だったかもしれない。
 自分的には真衣との生活のために頑張っていたつもりだったが、客観的に考えれば彼女のことを蔑ろにしていたと思われても無理はない。
 いや、いきなり出ていけと言われて大して腹も立たなかったということは、真衣との生活のためと言いながら、自分の意地とプライドのためだったと、どこかで自覚していたからか。
 それに、家賃や生活費を出すことにこだわったのは、向こうから同棲を持ちかけてきたとはいえ、彼女のその気持ちがずっと続くわけじゃないと考えてもいたからだった。事実そうだったけれど、あの時点での真衣の気持ちや言葉に偽りはなかっただろうと、今、有川を見ていて思う。
 箱辺さんは、そんな有川の夢見がちな発言に疑念や不安を覚えながらも、聞き流すことなく真摯に向き合おうとしているのだ。
「あのさ、箱辺」
 湯呑を両手で握りしめてうつむいた箱辺さんに、黙って聞いていた中戸さんが呼びかけた。
「俺に言われても嫌かもしれないし、話し半分に聞き流してくれてもかまわないけど、ご家族に言えないようなことなら、しない方がいいと思う」
「え、」
 中戸さんらしくない発言に驚いたのか、箱辺さんが顔を上げた。正直、俺もびっくりしていた。
「箱辺んちは実家近いから、わりと頻繁に帰ってるだろ」
「そう、ですね。ヨウと付き合いだして、だいぶ減りましたけど」
 箱辺さんはまた、湯呑の中に視線を落とす。
「休みの日とかに帰る時、ヨウがすごく寂しそうな顔するんです。だから、一緒に住めば、実家に帰るのも今ほど寂しがらなくなるかなって」
 日帰りなら、夜にはまた会えるから。
 箱辺さんは恥ずかしそうだったが、その声音は惚気ているというよりは切実もので。窓からの陽光に縁取られたカールした睫毛が、わずかに震えていた。
「優しいな、箱辺は」
 中戸さんは、そんな彼女に包み込むような眼差しを向けて言った。
「でも、しんどいと思うよ。隠してることが申し訳なくて、親の顔を見るのが怖くなって、今までより帰るのが辛くなる。それにもし他に好きな人ができた時、たとえ有川と別れていても、同棲してたことが障害になるかもしれない。そういうの、嫌がる男もいるから」
「グンジ先輩は、そうだったんですか?」
「あの部屋の元の持ち主が出ていって最初に付き合った奴は、そういう人だったよ」
 最初のあの部屋の持ち主と付き合っている中戸さんを見て、一途な所が好きだとか抜かした奴だろうか。
「自分も一緒に住もうって言ってきたのに、男って勝手だよね」
 中戸さんはそう言って笑ったけれど、俺はそいつを張り倒してやりたかった。事情を知らないとはいえ、断れない性格のこの人に勝手な理想と好意を押し付け、分かり切っていたことを理由になじる。何を言われても黙って耐えていたのだろう中戸さんのことを思うと、腸が煮えくり返って仕方なかった。
 箱辺さんが訊きたかったのはそこではなかったようだったが、それ以上追及はしなかった。有川が戻って来たのだ。
「なになに、何の話してんの?」
 いそいそと座りながら問う有川に、中戸さんが飄然と応える。
「同棲するなら別れた時のことも考えといた方がいいって言ってんの」
「もう! 先輩はなんでそういうこと言うかなぁ! 別れること考えるくらいなら同棲なんてしませんよ!」
 有川はぎょっとし、子どもみたいに身をよじった。
「でも、同棲って別れた時、下手すると住む所がなくなるんだぞ。俺はマンションの家賃払えなくなるとこだったし、俊平くんも困ったの知ってるだろ」
「そうなったら俺が先輩たちのマンションに居候させてもらうってことで……」
「やなこった」
 有川と問答していた中戸さんと、真衣に追い出された日、有川に泊めてもらえなかった俺の声がハモった。






 「グンジ先輩がああいうこと言うとは思わなかったな」
 ハンドルを握った有川が、前方を見据えたまましみじみと言う。
 友達に連れてきてもらっていた箱辺さんをマンションに送り届け、俺をバイト先まで運んでくれているところだ。中戸さんは塾のバイト先の人に車を借りて来ていたようで、返してから帰宅するとのことだった。
「俺もだけど、箱辺さんも驚いてたな」
 中戸さんは有川に、「そんなに箱辺が好きなら、家族に対して後ろめたい思いさせんなよ」と言ったのだ。
 箱辺さんは「グンジ先輩って、意外と真面目な人なんだね」と、ちょっと失礼な感想を漏らしていた。相談を持ちかけておいて言うことではないが、彼女は中戸さんが親身になってくれるとはあまり思っていなかったらしい。
「くそう、グンジ先輩の株ばかりが上がっていく」
 有川が苦々しく言ってハンドルを切る。
 箱辺さんは、女の子にモテるのもちょっと分かった気がする、と頬を上気させてもいた。先輩、頭や顔だけじゃなかったんだなぁ。
「箱辺さんの場合、中戸さんのイメージがマイナススタートだったんじゃね? 箱辺さんてわりと固そうっていうか、清純そうだし」
 誰彼となく関係を持ち、次々と違う男と同棲する人間。これが女の子なら、同じ女性はまず良い印象を持たないだろう。潔癖な子ほど嫌悪感を抱くかもしれない。
「うーん、グンジ先輩に関しては、あるいはそうなのかも。でも、そんなにお固いわけじゃねーよ」
 午後の陽射しが直接フロントガラスを突いてくる。俺は目を細めて庇を下げた。
「まぁ、お固かったら、同棲オッケーはしないだろうけど」
「そうじゃなくて。その辺は、まぁ、すぐに答えはもらえなかったよ」
 有川も庇を下げたが、視界に支障が出たらしい。忌々しそうに角度を変える。
「俺さ、はっきり訊かれたんだよ。同棲したがるのは、やりたいからなのかって」
 それはまた箱辺さんもはっきり言ったものだ。
「俺、正直それもあるって答えた」
 もっと当たり前に一緒にいたいんだ。部屋に帰ったらアイちんがいて、勉強してたりテレビ見てたり。いなくても、洗濯物があったり食べ残しがあったり。俊平たちみたいに、「おかえり」とか「ただいま」とか当たり前に言い合える生活がしたいんだ。でも、正直それもある。全然ないって言ったら嘘になる。
 何故そこで俺たちが出る、と思ったが、俺は黙って先を促した。
「ドン引きされるかと思った。でも、」
 箱辺さんは、嬉しそうに笑って『良かった』と言ったそうだ。
 ――良かった。生活費を安く上げるためって言われたら、身体目当てって言われるよりへこんでたかもしれない。
 身体なら、まだ自分の肉体を好いてくれていると思える。でも、お金のためだと言われると、自分を必要とされてる気がしなかっただろうと彼女は考えていたという。
 俺は耳が痛かった。俺が真衣との同棲を決めた一番の理由は、生活費が安く上がるからだったのだ。
「アイんちってさ、仲良し家族なんだ。実家帰るたび、家族で買い物や食事に行ってるみたいだし、お母さんとは毎日メールもしてるみたいで」
 信号待ちで停まった有川は、煙草を取り出して火を点けた。
「後ろめたい思いは、できるだけさせたくないよな」
 窓を薄く開け、煙を外に逃がす。有川がこんな行動をするようになったのは、煙草を吸わない箱辺さんと付き合いだしてからだ。本数が減ってきているように見えるのも、彼女の影響なのかもしれない。
「グンジ先輩も後ろめたかったのかな、家族に対して」
 ぽんと投げ出すように、有川が言った。
「そんなこと感じるような人には見えないけどよ」
 俺は答えなかったけれど、中戸さんが有川の想像する以上の後悔と後ろめたさを抱えていることは知っていた。想像を絶するそれらを笑顔の下に押し隠して、彼は家族と接するのだろう。何も後ろ暗いことなどないかのように。
 マンションの前に広がる森林公園が見えてきた。木々が影を作り始めた歩道を、ノースリーブ姿の女性が歩いている。すらりとした後姿と真っ直ぐなロングヘアが、少し真衣に似ていた。
 彼女も後ろめたさを感じていたのだろうか。家族に対して。
 彼女にそんな思いを強いていただろう俺を、中戸さんは軽蔑しただろうか。












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