器用な指先 04

 夕方のステージも見て帰るという犬飼を残し、バイトのある俺と中戸さんはファッションビルを後にした。ラギ達のライブは本日三回予定されていて、あと一回残っているのだ。彼らは明日、ライブハウスでも演奏することになっていて、今回こちらに来たのはそれがメインらしい。明日のライブの後、ささやかな打ち上げをするから来ないかと誘われたのだが、俺たちは受けるでも断るでもなく、誘ってくれた礼だけ述べて彼らと別れた。
 寒いくらいに冷房の効いていた建物を出ると、一瞬だけ暑さを気持ちよく感じる。しかし、それはほんの束の間。すぐに汗が浮いてくる。
「明日、行くんですか?」
 なるべく建物の影を歩きながら問うと、中戸さんは考えるように腕を組んだ。
「んー、俺は院試の勉強もあるし、行く気ないんだけど。俊平くん行きたい?」
 ライブではなく、打ち上げの話である。ライブの時間帯は、二人ともバイトで到底行けそうもない。しかし、ライブには、今日は来ていなかったラギや木曽さんの友人も大勢行くことになっているとかで、無理には誘われなかった。
 打ち上げにも行く気はないという中戸さんの返事に、いくばくかの安堵を覚える。しかし。
「いえ、俺よりも……」
「ああ、犬飼さんか」
 俺は頷いた。犬飼はきっと行きたがるだろう。行くからには、俺や中戸さんも巻き込もうとするに違いない。
 中戸さんは暑いと言って、早くも汗で張り付いたTシャツの襟元を引っ張り、なけなしの風を取り込んでいる。健康的に焼けている首筋とは対照的に、襟ぐりからチラチラと覗く肌はほんのりと白い。その境界あたりにある鎖骨が、汗で光っていた。
 無意識のうちに魅入っていたらしい。中戸さんが、ちらっと窺うように俺を見た。俺は慌てて視線を逸らしたが、中戸さんの顔にからかうような笑みが浮かぶのが分かって、冷や汗が噴き出しそうになった。
「何? ひょっとして妬いてんの? 犬飼さんが蕪木に入れ込んでるみたいだから」
「な、違っ!」
 図星を指されて更に狼狽する。そうだ。俺は妬いていたのだ。でもそれは……。
「犬飼じゃなくて」
「じゃなくて?」
 形の良い唇が、先を促す。俺はたまらなくなって俯いた。
 たまらない。その唇を、日に焼けた細い首筋を、今Tシャツで隠されている白い肌を、ラギのあの器用な手が、指が、ギターを弾くように縦横無尽に駆け回っていたのかと思うと、胸が妬けて、妬けて焦げつきそうで、たまらない。やめてくれと叫びだしそうになる。
 でも、そんなことをバカ正直に言えるはずもなく。
「……ギターが……」
 俺はやっとのことで、別の答えを搾り出した。
「俺も、少しだけ夢中になった時期があったんだけど、全然ダメで。ああいう風に演奏できたら気持ち良いでしょうね。あんなに器用に指が動くなんて羨ましいです。すげーカッコ良かった」
 今嫉妬していたのは別のことだけど、この感情も嘘じゃない。俺は無力な自分の手を見つめてうな垂れた。
「うん。俊平くんや犬飼さんを音楽でそこまで魅了しちゃう蕪木は、たしかにすごいしカッコ良いよね」
 俺に同意する中戸さんの声は、この夏空のように晴れやかで。俺はますますうな垂れたい気分になった。
 やっぱり中戸さんにとって、ラギはある種特別な存在だったのではないだろうか。恋人として『好き』ではなかったにしろ、他の別れた人たちとは一線を画すような。今まで、かつての恋人と中戸さんが普通に会話しているところなど見たことがない。ましてや、じゃれ合ってるところなんて。
 しかし、続く中戸さんの言葉は、俺の顔を上げさせた。
「けど俺は、料理ができる俊平くんの手のが格好良いと思うけどなぁ」
「俺くらいの料理なんて、練習すれば誰でもできますよ」
「でも俺はできないし」
 文武両道。才色兼備。神に二物も三物も与えられているかのような中戸さんが最も苦手としているのが、料理のようだった。
「犬飼さんは蕪木の演奏がセクシーだって言ってたけど、俺は俊平くんの魚捌いてる手つきのがそうだと思う。コノシロ捌いてた時なんて格好良過ぎて、どうやってプロポーズしようか考えちゃったもんね」
「そ、そりゃ、中戸さんがコノシロ好きだからでしょ」
 急になんてことを言い出すんだ、この人は。俺は赤くなりつつある顔を見られないよう、そっぽを向いて言った。
 コノシロの酢漬けは中戸さんの好物だ。春先に中戸さんが、友達が釣ってきたという大量のコノシロを、「酢漬け酢漬け」と浮かれた様子で口ずさみながら解剖(あれは調理とは言わないと思う)していたことがあったので、見るに見かねて捌いてあげたことがあった。あの時、ウロコの取り方すら分からないのに、それでも自力で捌こうとしていたので、よほど好きなのだなと思っていたら、案の定、六匹もあったコノシロは、たった二日で消費されていた。二匹分くらいは俺が骨断ちしたが、後の四匹分をどうやって食べたのかは、謎である。
「あははー。バレてたか」
「バレてますよ」
「てか、俺に言われても嬉しくないよね。向こうは犬飼さんだしなぁ」
 いや、冗談でなければものすごく嬉しいです。とは言えるはずもなく、俺は「犬飼に言われても嬉しくないですけどね」と言ってやり過ごした。
「でもね、音楽で人を元気付けられるって、たしかにすごいことだけど、食って直接人の生に関わることじゃない。そこをおいしくできるって、ものすごく尊敬に値すると思う。少なくとも俺は、蕪木のギター聴くより、俊平くんの料理食った時のが元気出るな」
 ひょっとして中戸さんは、ラギの才能に嫉妬している俺を、慰めてくれているのだろうか。No music, no life.と思っていた時期すらある俺には考えられない言葉だったし、中戸さんがそんなに食うことに執着があるようにも思えなかった。
 それでも、どこかラギよりも認められているようにも思えて。
 暑さが、いや、熱さが増した。
「やっぱ飯食わないと生きてけないからねー」
 中戸さんは涼しい顔で言い放つと、飯代を稼いでくるとバイト先に向かった。






 犬飼に借りたCHARAのアルバムで訊いた『Junior Sweet』という曲は、たしかに中戸さんの声でそのまま想像すると爆笑ものだった。だが、あの歌詞はヤバイだろう。誰が中戸さんに歌わせようと提案したのか知らないが、意図的だったらヤバすぎる。
 あの顔で、「自分以外食べるものは何もない」なんて言われたら……。




 しかし、そんなことを想像して頬が熱くなる俺は、もっとヤバイに違いない。












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