エレベーター 01

 寒の戻りというやつだろうか。三月も半ばだというのに、雪が積もった。そろそろクリーニングに出そうと思っていたコートの前をしっかりと留め、寒さに身を縮めながらマンションのエレベーターに乗り込むと、白い塊が転がるように走りこんできた。塊は、白いダウンを着て、俺と同じように身を縮めた同居人の中戸さんだった。
「今帰りですか」
「うん。俊平くんも?」
 帰宅がひとつになることは珍しい。俺は頷いて部屋のある階のボタンを押した。
 年代物のエレベーターは、他所では聞かないような大きな稼動音を立てて、重力に逆らい始める。だいぶ慣れたが、最初の頃は不気味で、俺は階段を利用することが多かった。
「この辺りって、よく積もるんですか? 今年の冬はそうでもなかったけど」
 靴の裏のシャーベット状になって固まっている雪をこそげ落としながら、俺より数年前からここに住んでいる中戸さんに問う。
「いや、冬場でも滅多に積もらないよ。こんなの、俺がこっちに来てからは初めて。あちこちパニックだったでしょ。今の時期に限らず、みんな慣れてないから。俺もそれで遅くなった」
「そういえば・・・・・・」
 バイト先でついていたテレビでは、事故のニュースが相次いでいた。
「今日くらい、バイト休めば良かったのに」
「それはお互い様。俊平くんもバイトだったんでしょ」
「俺は先月、試験とかで結構休んじゃったから」
「こっちは今が追い込みって子がいてね」
「ああ、二次ですか」
「こんな日は、受験生は外に出ない方がいいと思うんだけどね」
 滑って転んで骨折でもしたら洒落にならないよねと、塾の講師のバイトをしてきたらしい中戸さんは苦笑する。
「家にいても不安だって気持ちは分かりますけどね」
 俺もそう言って笑ったが、笑い声は途中で途切れた。
 ガクンと激しい音がしたかと思うと、急にエレベーターが停まったのだ。目的の階に着いたからではない。回数表示ランプはまだ下だったし、何よりかご内の照明が落ちている。
「停電!?」
「だね」
 叫んでしまった俺とは対照的に、いつもののんびりした調子で中戸さんが応えた時、中が再び明るくなった。と言っても、さっきまでより遥かに弱々しい灯りで、復旧したわけではないらしい。
「停電灯か。救出運転なんてしそうもないし、外に連絡取ってみる」
 中戸さんは淡々と言って、回数ボタンの上にあるインターホンを押した。その結果、このエレベーターには自動で最寄りの階に停まるなどといった気の利いた機能は付いておらず、係員が救出に向かうので、その到着か復旧を待ってくれということだった。停電の原因は、どうやら雪らしい。
「このエレベーター、よく止まるんですか?」
 中戸さんのあまりに冷静な対応に、そんな疑問が浮かんだ。中戸さんは壁に背中を預けて両手に息を吹きかけていたが、顔を上げて否定した。
「いんや。何で?」
「や、慣れてるみたいだったから」
 中戸さんがあまりにのほほんとしていたから、パニックに陥ることはなかったが、俺は十分動揺していた。
「ああ、一人でエレベーターに乗ると、なんとなくあれに目が行ってたんだよね」
 中戸さんの視線の先には、さっきのインターホンがある。
「まさか、乗る度に災害時のこと考えてたんですか」
「そこまでじゃないけど。でも、こういうのしょっちゅう利用してると、時々考えない? 閉じ込められたらどうしようとか」
「意外に心配性なんですね」
 中戸さんはいつもどこか飄々としていて、何があっても動じない風なのに、そんなことを考えていたとは。実際、こうして閉じ込められていても、危機感なんてまるでなさそうなのに。
 でも、閉じ込められたらと考えてしまう心理には、同調するものがあった。
「俺、閉じ込められたらって考えると、いつもトイレの心配しちゃうんですよね。トイレに行けないとか行きづらいって状況がどうもだめで。だから試験とか飛行機に乗る前には、大して行きたくなくても必ず行っちゃう」
「そういえば映画の前に行ってたよね」
「行っちゃいけないわけじゃないけど、途中で立ちづらいじゃないですか、映画って」
 だから俺は、あまり映画館に行かない。
「トイレっていえば高校の頃読んだ短編集に、全く知らない男女がエレベーターに閉じ込められるって話があったんです」
 今の状況と少し重なるせいか、中戸さんは興味深そうに内容を訊いてきた。俺はうろ覚えですけどと前置きしてから、記憶にあるあらすじを辿った。著者やタイトルはもう思い出せない。
「二人はもう何日も閉じ込められていて、することがないから互いのことを喋りまくるんです。生い立ちから趣味や思考まで、時間があるから、とにかく今までのこと全部」
 そのうち話は尽きてしまうのだが、エレベーターは動かない。そこで二人は、今度はセックスを始める。他にすることもなく、互いの話を聞くうち惹かれあうようになっていた二人には、それは自然の成り行きで。しかし、最初は貪るように求め合っていたのが、来る日も来る日もそればかり続けていると飽きてしまい、しまいには口をきくのも嫌になる。
「で、お互い顔を見るのも嫌になった頃、ようやくエレベーターが動き出すんですけど、それ読み終えて俺が一番に考えたのって、この二人、トイレはどうしてたんだろうってことでした。健全な男子高校生の感想じゃないですよね」
「あはは。そうかも。俺だったらそれに、飯はどうしてたんだろうってつくけど」
「現実的すぎ」
「俊平くんもでしょ」
 中戸さんは笑っていたが、寒さのせいか、顔色が少し悪く見えた。風は遮断されているとはいえ、かご内は底冷えがしていて、互いの息が白く見える。
「でも、その話は嫌だな」
「最終的に飽きるってところがですか?」
 読み終わった時の感想はトイレのことだったが、読みながら俺は、あれだけ惹かれあっていた人間同士が飽きていく様に嫌気がさした。惹かれていく様子が丁寧に書かれていた分、それはよけいに生々しくて。どうせそんなもんだと思う反面、ナンセンスな作り話でまでこんな展開にしなくてもと思ったものだ。
 しかし中戸さんは、そこじゃなくてと白い息を両手に吐きかけた。
「そのプロセスが。それって一つの恋愛が終わらなきゃ先へ進めないってことなんだろうけど、そのためにお互いを晒しつくして、そのことによって飽きていくわけでしょ」
 自分には分からない部分もあるから、相手に惹かれる。もちろん全く相容れない相手では惹かれることもないかもしれないが、知らないところ、見えないところに魅力を感じることもある。知りたいと、理解したいと思うからこそ、相手にのめり込んでいく。セックスだって、どこをどうすればどういう反応が返ってくるかを知り尽くしてしまったら、きっと物足りなくなる。だから、相手のことを全部知ってしまったら、最初は嬉しくても、最後には小説の二人のように飽きてしまうだろうと中戸さんは言った。
「だから恋愛を始めるためだけじゃなくて、飽きる、というか、恋愛を終わらせるためのプロセスとしてお互いのことを何から何まで話すってのが必要なんだろうけど」
 手が冷たくて仕方ないのだろう。口許で握り締め、ハーッと息を吐きかける。
「俺だったら一生出れないかも。まず今までのことを話さなきゃいけないってところでつまづく」
「あ、俺もそれは嫌ですね。家のこととか、初対面の相手になんて話したくないし」
 母親が出て行ったことを話し、同情から相手の興味を引くなんて、冗談じゃない。
「俺の場合、話したらまず恋愛に発展しない」
「そうとは限らないでしょう」








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