エレベーター 02

 中戸さんの生い立ちはたしかに特殊で、聞けば引く女性もいるだろう。俺だって、引きはしないまでも、かなり耳を疑った。もしも彼がいつもの飄々とした調子で話していたら、きっと冗談だと思って聞き流したに違いない。話を聞いたのはつい先日のことだが、今も、何かの聞き間違いだったんじゃないかという気がする。だが、中戸さんがこんなことを言うということは、やはり聞き間違いではなかったのだろう。
 あの時、中戸さんの喋りは淡々としていたが、明らかに普通じゃなかった。いや、そもそも普通の状態だったら、適当に取り繕って話したりなどしなかっただろう。あの時の彼には、そんな余裕もないようだった。
 しかし、どんな過去を持っていても、この人ならたいていの人は惹かれそうな気もするのだが。事実、今でも誰彼構わず寝ちゃうのに、惚れる人間も後を絶たないようだし。
「限るでしょ。限らなくても話したくはないな。俊平くんならそこんとこ省けるんだけど」
「俺もそこクリアできるのって、中戸さんくらいだ」
「今までの彼女には?」
「たいてい知ってるけど、それって俺が喋ったわけじゃないから」
 うちが父子家庭であることくらい、家に来れば誰でも分かる。何も知らなかったのは、家を出てから付き合った真衣くらいのものだ。
「でも、俊平くんじゃその先が無理だしねー。結局出られない」
「俺だって、出るためならできますよ。掘られるのは嫌だけど、ひもじい思いやトイレ行きたいの我慢しなきゃいけないの何日も我慢するなんて、それこそ冗談じゃないし」
 寒さが増してきて、俺も中戸さんのように自分の手に息を吹きかけた。中戸さんはもこもこのダウンを着ているにも関わらず、既に歯の根が合わなくなっているらしく、ガタガタと震えている。手の間から見え隠れする唇だけが異様に赤くて、それが余計に寒さを感じさせた。
「や、無理。それでも無理だって」
「無理じゃないですって。ほら」
 俺が無理というより中戸さんが嫌ってことなんじゃないだろうか。
 誰とでも寝るくせに、俺はダメなのかと思うと腹が立ってきて、俺は壁に寄りかかる小柄な身体の前に立ちはだかった。覆いかぶさるように間合いを詰め、口許に留めている両手の手首を取って壁に押し付ける。そのまま冷え切った手に自分の手を絡めると、中戸さんは抵抗するように身じろぎした。
「いやあの、今証明しなくていいから」
「だって、出られないじゃないですか」
 俺にはサドっ気でもあったんだろうか。身を竦めて焦る中戸さんを見ていると、身体の中心に熱が集まってくるような気がする。なんか、マジでできそうな気さえする。
 構わず赤い唇めがけて顔を寄せると、中戸さんは顔を背けて叫んだ。
「や、俺が無理って言ったの、そのことだけじゃないから! それにこれ、現実だから!電気が復旧したら動くし、そうでなくても管理会社の人がこっち向かってるし」
「あ・・・・・・、す、すいません」
 俺は慌てて身を離した。そのまま勢いよく後退ると、中戸さんの寄りかかっている壁と向かい合ったドアに、背中が激突した。
 俺今、何しようとしてたよ!? 相手は中戸さんなのに、できそうな気がしたとか・・・・・・。ああもう、自分で自分が信じられない。
 そうなのだ。今は特別な災害ではないし、管理会社に連絡もついている。何もしなくても、一生閉じ込められるわけがない。
 一歩引いてみると、さっきの自分はどう見てもサカリのついた変質者で。しかも、襲おうとした相手が同居人で男だなんて。そう。いくら中戸さんが結構可愛い顔してて、ミスコンの優勝経験があるといっても、彼は男だ。有り得ない。
 恥ずかしすぎて中戸さんの方を見れない。できれば目の前から走り去ってしまいたいが、狭いエレベーターの中で逃げ場もない。もういっそ、この場から消えて無くなりたい。
 もう寒さなんて感じなかった。それより暑くて仕方ない。俺は中戸さんに背を向けると、コートの前を開け、手で顔を仰いだ。
「俊平くんて・・・・・・」
 俺がかごの隅で自己嫌悪に陥っていると、背後で呟く声がした。何を言われるのかとびくりとする。あんな失礼なことをしたのだから、同居を解消したいと言われるかもしれない。
 だが、中戸さんはぷっと奇妙な声を立てると、
「時々予測不能っていうか、ぶっ飛んだ思考するよね。あんなことでムキにならなくていいのに」
 恐る恐る振り返れば、中戸さんはクツクツと肩を震わせて笑っていた。
「だって、中戸さんが馬鹿にしたような言い方するから」
 まさか俺だけ拒絶されているようで腹が立ったとは言えないので、俺はそう口を尖らせた。
「それにしたって、人に何か言われても、たいていは知らん顔してるのに」
「アカの他人と同居人は別です」
「一応俺、アカの他人とは思われてないんだ?」
「そりゃまぁ。他人は他人でも同居してるわけだし」
 鋭いのか天然なのか、笑いながらちくちくと痛いところに突っ込みを入れてくる中戸さんに、つっけんどんに返す。すると中戸さんは笑うのを止めて、
「同居してる他人ね。でも、馬鹿になんてしてないよ。そう聞こえたなら、それは自分に対して」
「自分に? そういえば、無理って言ったのはあのことだけじゃないって言ってましたけど」
 中戸さんの声が幾分小さくなったので、俺は聞き取ろうとまた彼の前に行った。空間が狭いので、数歩近寄っただけで元の位置に戻ってしまったのだ。
「だって、俺の推測が正しければ、閉じ込められた二人は恋愛して、お互いに飽きなきゃ出られないんだよ。身の上話やセックスは、ただの過程だもん」
「あ、・・・・・・そっか」
 ノン気の俺と『上の空』の中戸さんでは、恋愛に発展するはずがない。一つの恋愛を終わらせなければ出られないとすれば、まず始めなくてはならないのに、始まりようがないのだ。
 だけど。
 不意に中戸さんがコートの中に飛び込んできて、俺は再び狼狽した。突拍子もない行動をするのは、中戸さんの方だ。
「でも、少しこうしててもらえないかな。さっきからすげぇ寒くて」
「管理、会社の人が、来るかも」
「道路が混んでるから、その前に電気が復旧する。賭けてもいい」
 中戸さんは俺の胸元に額を押し付けたまま言って、俺のセーターを掴んでいた手に息を吹きかけた。胃の辺りがむずむずする。治まりかけていた火照りが、さっきよりも温度を増して襲ってくる。
 それでも、目の前の白い背中は凍えるように震えていて。
 俺は、胃の辺りで握り締められたかじかんだ手を、コートの中で自分の後方に回させ、身体をぴたりとくっつけた。コートの前をひっぱって、小柄な身体をできるだけその中に収める。
 いっぱし厚着をしているのだ。割れ鐘のような心臓の音だって聞こえはしないだろう。
 俺はそうタカを括ることにして、ぶっきらぼうに言った。
「俺も、この方があったかいですから」
「・・・・・・ありがと。助かる」
 胸元からくぐもった声がして、俺の脇腹あたりに留まっていた手が、ぎゅっと背中に回される。
 俺はダウンとコート越しに華奢な背中を抱き返しながら、閉じ込められた場所から脱出するためとはいえ、この人に飽きられるのはちょっと嫌かもしれないと感じていた。






 それからいくらもしないうちに電気が戻り、エレベーターも復旧した。
 中戸さんの予想どおり、管理会社の職員は雪による渋滞に捕まり、到着したのは二時間後のことだった。








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