日付もそろそろ変わろうかという頃。マンションの駐車場まで有川を送って部屋に戻ると、中戸さんがダイニングの電話で誰かと話していた。
「うん。じゃ明日」
受話器を置いて、大きく息を吐く。それに合わせて、男にしては華奢な肩が上下した。
「何か、あったんですか?」
「ああ、ううん。何でも」
中戸さんは振り向いて、笑顔を作った。自然と出た笑みではなく、明らかに作った笑顔。もともとどこまで心が入っているのか分からない人ではあるが、それを他人に悟らせるような人ではない。
「何か、緊張してません?」
それが表出しているということは、何かあるのだろう。
「そう見える?」
「少し」
曖昧に頷くと、聞きたくない言葉が返ってきた。
「明日から遼太の家庭教師に復帰するからかなぁ。そんなに緊張してるつもりないんだけど」
遼太という単語に、身体のどこかがちりっと音を立てる。
「明日って……また急ですね」
「んー、でも、いつもこの曜日にしてたからね。それより明日、なんだったらここに彼女連れて帰ってもいいよ。俺、帰らないかもしれないから」
「え?」
帰らないってまさか。
河瀬遼太のあの機嫌の良さといい、中戸さんの幾分緊張気味な面持ちといい、なんだか嫌な予感がする。身体の奥が、キリキリする。
「『かも』じゃ呼べませんよ」
「んじゃ、帰んない」
内心の動揺を隠しておどけて言うと、中戸さんもおどけて返してきた。
「だから、安心して呼んでいいよ」
中戸さんが先輩然とした笑みを浮かべて、俺は一つの疑問を噛み殺した。
――帰らないかもしれないって、まさか河瀬遼太と……?
長谷川さんとは、午後八時に駅で待ち合わせていた。彼女の方に何か用事があったらしく、少し遅い待ち合わせになったのだ。少しは気を利かせて予約を入れておこうかと、どこか行きたい店がないかメールしたのだが、会ってから決めようという答えだった。
金曜日ということもあって、駅は人でごった返していた。芋洗いってこういう状況を指すのだろう。もっと厳密な場所を決めておけば良かったと思いながら携帯を取り出そうとしたら、人にぶつかった。学生らしき男の子が、俺の手から零れた携帯を拾って手渡してくれる。
「すいません。ありが……」
言いかけて固まった。
「あれ? えっと、河瀬くん?」
携帯を拾ってくれたのは、たしかに見覚えのある、少々眼つきの鋭すぎる少年で。
人並みの向こうから、「何やってんだよ、河瀬」という、彼と同い年くらいの少年の、急かすような声がする。
「え、友達と? 中戸さんと一緒じゃないの?」
「カキョーは明日になったんで」
「あ、そう」
「あんた、グンジ先生と一緒に住んでるのに、何も知らないんだな」
思い切り棘のある言い方で、険のある視線を寄越された。しかもあんた呼ばわり。もともと吊った眼が、さらに吊り上っているように感じる。
何故俺が、この少年に敵視されなければならないのか。高校生相手に情けなくなるが、中戸さんのことなど、たぶん知らないことの方が多いのは事実で。
「うん、全然知らないんだよ。今日も帰らないとか言ってたけど、どこ行くとか何も聞いてねーし」
素直に認めると、河瀬遼太は勝ち誇ったような笑みを浮かべて教えてくれた。
「今日なら、法事があるようなこと言ってたぜ。だからカキョーも来週からにして欲しいって言われたんだけど、明日ならちょうど先生も俺も空いてたから、明日からにしてもらったんだ」
「法事!?」
そういえば、今日は何日だっけ? 中戸さんが養父の葬式に帰ったのは!?
どんどん血の気が引いていく。帰らないって、ひょっとして……。
どうして気付かなかったんだろう。どうして忘れていたんだろう。他はどうでも、これだけは注意しておかなければならなかったのに。
中戸さんの養父の四十九日だけは。
「ありがとう。助かった」
俺は河瀬遼太から受け取った携帯を開くと、人の少ない場所へ移動しながら、中戸さんの番号を呼び出した。出てくれと、祈るような気持ちで通話ボタンを押す。けれど、繋がった先はやはり留守番サービスセンターの案内で。
「くそっ」
悪態を吐いて携帯を閉じる。俺は携帯を地面に投げ付けたい衝動を必死に堪え、もう一度開いて通話ボタンを押した。聞いてくれるかどうか分からないが、何かメッセージを残さなければと思ったのだ。前の帰省の時には、少なからず役に立ったようだったから。
何と入れるべきか悩みながら、サービスセンターの案内を聞く。待ってます? 真っ直ぐ帰れ? いや、迎えに行く? でも、何処に?
中戸さんの実家がどこにあるのか、俺はそれすら知らない。住所も知らなければ、電話番号も知らない。出身校は分かるが、それが何県のどの辺りにあるのか皆目検討もつかないのだ。でも、あそこに泊まらせるわけにはいかなかった。
中戸さんにとって実家は鬼門だ。あそこに行くと、彼は必ずと言っていいほどおかしくなる。あの家を出て気が抜けると、見ず知らずの男の服を掴み、抱いてくれと縋るようにせがむのだ。あの容姿でなかったら、男にそんなことを頼まれて相手にする奴などいなかっただろう。しかし、幸か不幸か中戸さんの外見は、男にしては綺麗過ぎる。特に自覚なく請う時の様は、男女の別なくたいていの人間を惑わすには十分すぎるほどで。
中戸さんがそうなるのは、亡き養父のせいであり、義兄達のせいであり、たぶん中戸さん自身のせいでもあるのだろう。だが、それを今すぐ彼に克服しろというのは酷な話だ。それには、彼が自分を守るため、捨てたり削ったりした部分が多すぎる。
中戸さんは普段、外見とは裏腹に飄々としていて、たいていの事には動じない人だけど、それはその分、俺には考えられないような経験をしてきたからだと思う。好きだと言われれば誰とでも寝るのも、そのくせ本当に好きな人には臆病になって受け入れられないのも、そして、たいていいつも上の空なのも、みんなあの家であったことが関係しているのだ。
焦る気持ちを抑え、駅舎から出て電波のいいロータリーまで来た時、ピーっと留守録を促す発信音がした。
「中戸さん、今どこ――……」
馬鹿なことに、留守録に向かってどこにいるのか訊こうとした時、その答えを耳ではなく眼で見つけた。
「中戸さん!」
開いたままの携帯を握りしめ、叫んで走り出す。
中戸さんはサラリーマン風の男に肩を抱かれて、タクシーに乗り込むところだった。