コレット 03

 駅前の信号を渡って男が追って来ていないことを確認すると、俺は人気のない狭い路地に入って中戸さんの腕を離した。荷物を落とし、肩で息をしながら、中戸さんの頬を軽く叩く。
「中戸さん! 大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
 それでも、壁に背を預け、うつむいている中戸さんに反応はなく。
「こんなになるって分かってるのにどうして……」
 どうして言ってくれなかったのか。唯一、俺だけが知っていることなのに。自分の不甲斐無さに涙が出そうになる。
 俺は堪らなくなって、人形のようになっている中戸さんを掻き抱いた。
「そんなに俺、頼りないですか? 俺、同居人なのに。中戸さん、俺のこと保護者みたいだって言ったのに」
 細い身体を、強く強く抱きしめる。柔らかな髪の毛からは、微かに線香の匂いがした。そのことに、少しだけ安堵する。
 まだだ。まだ一人目に声を掛けただけだ。今日はまだ、自ら嫌悪を覚えるようなことはしていない。
「行きずりになんて絶対やらせない。どうしても必要なら、俺が抱く」
 押し殺した声で耳元に囁くと、腕の中の身体がひくりと動いた。
「しゅ……平、くん?」
 か細い声が、俺の耳元で鼓膜を震わせる。
「ど、して……」
「どうして何も言ってくれなかったんですか。四十九日で実家に帰るって、何で言ってくれなかったんですか」
 俺は被せるように訴えた。
「なんで知って……。ごめん。心配かけちゃ悪いと思って」
 戸惑いを含みながらもしっかりした声音に、中戸さんが正気に戻ったと分かった。それでも俺は、彼に回した腕を離さなかった。離せなかった。
 中戸さんも身動き一つせず、そのまま俺の中に収まっている。
「悪いって……後から聞かされる身にもなってください。それに、実家に行った時は真っ直ぐ帰ってくるって約束したじゃないですか」
「だって、今日は俊平くんの彼女が……」
「あそこは中戸さんの家なんだから、そんな気遣わないでいいんです」
「でも……、って、彼女は!?」
「あ、」
 俺は慌てて中戸さんから身を離すと、開いたままポケットに突っ込んでいた携帯を取り出した。着信三回と、メールが一件。いずれも長谷川さんからで、メールには『どこにいる? 私は○○の看板の前にいるよ』と入っていた。
 俺はそのまま長谷川さんに電話をして、今日は行けなくなったと詫びを入れた。
「連絡が遅れてごめん。ちょっと急用ができて。うん。気持ちは嬉しかったんだけど、そういうことだから。うん、ありがとう」
「いいの?」
 通話を切って、パクンと携帯を閉じると、中戸さんが窺うような眼でこっちを見ていた。
「いいんです。別にまだ付き合ってたわけじゃないし。長谷川さんは、俺に彼女がいないって聞いて、慈善事業で彼女になってあげようかって言ってくれてただけだから」
「でも、今日行かなかったら、その申し出もパアになっちゃうんじゃない?」
「実家帰りの中戸さん置いて行けるわけないでしょう。中戸さんが公然わいせつ罪で捕まりでもしたら、俺一人で家賃払わなきゃなんないじゃないですか」
 俺は携帯をポケットにしまい、さっさと大通りに向かって歩き出した。
「こ、公然わいせつって……、人を露出狂みたいに」
「じゃ、売春防止法?」
「や、金取ってないし。それに、俺ならもう……」
「第一、もう慈善事業は断りましたから。こんなことで約束忘れるようじゃ、いくら慈善事業でも付き合えないでしょう」
 そうだ。俺は長谷川さんとの約束を忘れていたのだ。中戸さんが法事に行ったと聞いた瞬間に、すっぽりさっぱり。いくら相手がそれほど俺のことを好きでなくても(だからこそ余計に?)、これで付き合おうなんて失礼にも程があるってもんだろう。
「ほら、そんなことより帰りますよ」
 振り返り、まだ路地の中ほどに突っ立っている中戸さんに向かって手を伸ばす。引っ張られるようにやって来た中戸さんは、俺の手を取りかけて、思い出したようにそれを引っ込めた。
「俺の手、なんかついてます?」
 大通りからの明かりが当たるよう手を傾けてみるが、薄暗くてよく見えない。
 中戸さんはさっき俺に出しかけた手で荷物を肩に掛けなおした。
「や、手とか繋がなくても大丈夫だから。今日はもう、ほんと、大丈夫」
 うつむいているので表情は見えないが、その言い方がいつになくぶっきらぼうで。
「あ、いや、すいません」
 俺は慌てて出していた手を握りこんだ。あまりに自然に手を繋ごうとしていた自分に驚愕する。
 ――なんか一瞬、中戸さんが男だってこと忘れてなかったか、俺……。






 中戸さんはその日、本当にもう自失状態には陥らなかった。それでも、一時間以上風呂場から出てこなかったことが、短い滞在時間でも、実家で何を強いられたかを物語っているようで。
「中戸さん、今度実家に行く時は、俺、実家まで迎えに行っちゃ駄目ですか?」
 中戸さんが風呂から上がってきたところを、ダイニングで捉まえて訊いてみた。
 中戸さんはきょとんとしていたが、すまなそうな笑みを浮かべて大丈夫だからと言った。
「次はちゃんと真っ直ぐ帰ってくるから。ごめん。悪評立てるような行動は慎むって話したばっかだったのに」
「そういうことじゃないんです。そんなこと気にしてるわけじゃなくて」
 そんな風に考えていると思われるのは心外だ。俺はダイニングチェアの上で身悶えた。
 中戸さんは首を傾げていたが、腰を据えて聞いた方がいいと判断したのか、キッチンに立ってコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
「俺、コーヒー飲もうと思うんだけど、俊平くんもいる? ビールのがいいかな」
 俺はコーヒーと答え、中戸さんが向かいに座るまで、どう説明したらいいかを考えた。それでもうまくかわす言葉が見つからなくて。
 目の前にコーヒーを置かれてからした弁解は結局、
「あの、法事とか終わったと同時に俺が迎えに行けば、お義兄さん達の、その、相手もさせられなくて済むでしょう?」
 なんだか余計にいやらしい言い方になってしまったような気がする。
「そしたら嫌な思いもすることないし、帰りにおかしくなることもないし、俺もその方が安心だし……」
 誤魔化すように気勢をあげて連ねた理由も、だんだんと尻すぼみになってしまい、気まずい思いでチラッと中戸さんの様子を窺う。中戸さんは喫驚しているかのように、目を瞠っていた。
「そんなこと……考えてくれてたの」
「だって……」
 中戸さんの顔を直視できなくて、手元のコーヒーに視線を彷徨わせる。
 だって、俺は気付いたのだ。中戸さんがあんな状態になっていると思うと、不安で仕方ない。女の子からの誘いも、大事な予定も、全て頭から抜け落ちてしまう。心配と恐怖でどうしようもなくなる。じっとしていられなくなる。
「だって俺、上の空でも何でも、中戸さんがいつもどおりに笑っててくれないと、彼女作る気にもなれない」
 それはたぶん、家族が危篤の時に、恋愛に現を抜かしてはいられないようなもので。姉や妹がレイプされたと知った日に、恋人を抱く気になれないようなもので。
 それでも発した言葉に、それ以上に取られる可能性があるような気がして、俺はなかなか顔を上げられなかった。けれど不思議と、それを是正する気も起きなくて。
「……ありがとう」
 掛けられた言葉は柔らかく、何故か泣きたくなるほど優しくて。
 顔を上げると、中戸さんはとても優柔な笑みを浮かべて俺を見ていた。凪いだ海のように穏やかで、優美な笑顔で。
 その眼は、本当は俺なんか見ていないのかもしれない。笑顔だって、心はこもっていないのかもしれない。それでも、そんな表情ができるくらい、今の彼は余裕を取り戻しているということで。
 だから。
「ありがとう、俊平くん」
 もう一度改めて言われた時、涙が零れそうになった。








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