疑惑 その2

 友人の有川が所属しているサークルの部室で、そこの部長である入江先輩と喋っていると、用足しに行っていた有川が戻って来た。
「おう、遅かったな。腹でも下してんのか?」
 ところどころ穴が空き、中身がのぞいているソファに寝転がって煙草をふかしながらからかう入江先輩に、有川は部室の戸を閉めながら抗議した。
「違いますよ! この校舎のトイレ清掃中で使えなかったんです! それで仕方ないから講義棟まで行ったんですけど、掲示板のところに人だかりができてて、のぞいてみたらこんなものが張り出してあって」
 言いながら、有川はジーンズの尻ポケットから小さく折りたたんだ紙を取り出した。広げると、A4くらいのコピー用紙だった。
「勝手に掲示物持ってきたのか」
 俺が呆れていると、有川はその用紙を俺に突き付けてきた。
「だってこの学生番号、もしかしなくてもおまえだろ」
 用紙に印字された明朝体の文章には明確な宛名がなく、その代わりのように学科と学年と学生番号が書かれている。それに該当する学生とは、有川の言うとおり、俺だった。
「いつから張り出されていたのかは知らないけど、学部内では結構話題になっているみたいだぜ。何人かは、学生番号でおまえ宛てだって気付いてるかもな」
 俺が登校してきた時にはなかったから、張り出されたのは午後になってからだろう。俺は突き出された紙を受け取って、内容を確かめた。用件はたった二行。
『大切なお話があります。これを見たら、透の足下を確認してください。』
「制作者の名前もないしさー、この『透』ってのも誰のことだか分かんねーしで、掲示板の前騒然としてたぜ」
 制作者の名前などなくとも、俺には誰の仕業かすぐに分かった。同居人の中戸さんだ。
「犯人はグンジだな」
 有川の話をきいて、中戸さんとは同期生である入江先輩も断定した。俺は紙に目を落としたままうなずく。
「はい。中戸さんで間違いないと思います」
「この『透』って誰よ?」
 有川が印字された文字を指差して問う。
「観葉植物」
「はぁ?」






 有川の車に乗せてもらってマンションに帰りつくと、俺はすぐにダイニングの掃き出しに向かった。かすかに入る西日で、西側に置かれた観葉植物がフローリングに影を落としている。
「これが『透』だったのか」
 ついて来た有川が、俺の背ほどもある観葉植物を見上げた。垂れ下がるように伸びている大きな葉を手に取って眺める。
「そのはずだけど」
 たしか中戸さんは、この観葉植物のことを『トオル』と言っていたはずだ。「トオルに水やらないと」とか「トオルを陰に入れないと」とか。俺は品種名だと思い込んでいたのだが、人名のような漢字まであるということは、中戸さんの付けた名前だったのだろうか。見た目はともかく、植物や静物に名前を付けて愛でるタイプではないと思っていたのだが。
 俺は、根元と土を確認していた。掲示物には『足下』と書いてあったのだ。土の中に何か埋めてあるのかもしれない。
「あの文章って、差出人も本当の用件の隠し場所も、確実に俊平にだけ分かるように書いてあったんだな」
「一緒に暮らしたことある奴ならみんな分かんじゃね? 入江先輩だって、中戸さんが書いたってとこまでは分かったわけだし」
 中戸さんは結構短い周期で同居人を変えていたようだった。正確には同居人でなく同棲相手だったようで、恋愛関係のいざこざから変えざるを得なかったのだろう。
「部長はおまえへ宛てたものだっていうヒントがあったからだろ。それに、グンジ先輩と同棲してた奴らって、みんな大学には残ってないみたいだぜ」
「へぇ」
 彼は今四年生だから、相手は年上ばかりで、みんなもう卒業していったのだろうか。俺の前にここにいた佐渡という男は同期生だったようだけど。
「これだけ他の奴に知られないようにして伝えたいことって何だろな。愛の告白とかだったらどうするよ?」
 葉から手を離して、有川がニヤリと見下ろしてくる。
「んなわけねーだろ。差出人名書かなかったのは、騒ぎになるからだろ」
 中戸さんは大学内で、結構な有名人なのだ。宛名も制作者も不明で騒ぎにはなったようだが、彼が書いたものだと分かれば、話とはなんなのかと、もっと大騒ぎになっていただろう。あの暗号のような文章は、たぶん俺に対する配慮だ。本物の暗号を使わなかったのは、俺の頭が信用されていないからか、頭の程度を知られているからか。
「でもさ、グンジ先輩、ここんとこやたらおまえのバイトのシフト気にしてたし、俺が休みだって教えた日に帰ってこなかったってぶーたれてたぜ。だったら携帯に電話かければって言ったんだけど、しなかったってことは、直接会って言いたかったか、電話じゃ言い辛いことだったんだろ」
「……や、俺の携帯、一昨日から充電切れてたんだわ」
 当の中戸さんは、今日の午後からゼミの有志で県外に学会を聞きに行っているらしい。明後日まで帰らないと入江先輩が言っていた。
「おーまーえー! こんな時になんてことを! これで永遠にグンジ先輩の口から直接の告白は聞けなくなったな」
「だーかーら! んなわけねーだろ!」
 むしろ中戸さんには俺、線を引かれてるような気がする。元来、人に深入りされるのを良しとしない人だとは思うが、どうも俺にだけ態度が違うような気がするのだ。俺と同じ学年の奴らでも、同じサークルの有川や箱辺さんにはもっとくだけた話し方をするのに、同居人である俺にはどこかよそよそしくて。有川に言わせれば、
「でもおまえ、グンジ先輩に特別可愛がられてるじゃん。おまえくらいだぜ? グンジ先輩がくん付けで呼ぶの」
ということなのだが、俺に言わせれば、なんで一番身近にいるはずの俺だけが未だに『くん』付けなんだということになる。女の子の箱辺さんはもとより、今年入学してきたばかりの有川の従弟だって呼び捨てなのに。
「敬して遠ざけられてるようにしか思えねーけどな」
 俺はにやにや笑いを張り付けて見下ろしているであろう有川の顔を見ないようにして答えた。
 俺は有川のように、中戸さんから「おまえ」と言われたこともなければ、頭を叩かれたり首を絞る真似をされたりなどのスキンシップを受けたこともない。病気の時には頭を撫でてくれたりもしたけれど。
 だけど思うのだ。例えば彼が入院でもした場合、俺が見舞いに行ったら「心配しなくていいよ。ありがとう」と遠慮がちな笑みを見せるのに対して、有川たちが見舞いに訪れたら「ちったぁ心配くらいしろよ。おまえら後輩だろ」とか言って羽交い絞めくらいはやってのけそうだと。誰がどう見たって、後者の方が親しい間柄だと思うだろう。たしかに付き合いは有川たちより短いけれど、一緒に暮らしている分、俺の方が中戸さんに近付いていると思うのに。
 そんなこんなで、ひょっとして中戸さんは、人より多くの情報を知ってしまっている俺を暗に遠ざけようとしているんじゃないかという気がするのだ。
 とはいえ、なんで充電しとかなかったんだ、俺の大馬鹿野郎。中戸さんから携帯に着信があるなんて初めてのことだったのに。それに、携帯さえ繋がっていれば、こうやって有川に内容を探られることもなかったはずだ。まぁ、
「天地がひっくり返っても愛の告白なんてことはねーよ」
とは思うのだが。
 不機嫌に言った俺に、有川は鼻歌混じりに応じる。
「分かんないぜ? グンジ先輩がこんなに長く一人の奴と暮らしてるなんて奇跡に近いって先輩たちも話してたし」
「俺らのは同棲じゃなくて同居だからな」
 どうやら『足下』というのは根っこのことではないらしい。てっきり『大切なお話』の書かれた紙片が出てくるものと思っていたが、いくら土を掘り返してみてもそれらしい紙は出てこない。それどころか土はまだ湿っていて、紙片を隠すには不適切に思われた。
「っかしーなー、ここじゃねーのかな」
 それとも俺は、何か見落としているのだろうか。紙じゃなくて物が埋まっているとか?
「よく見ろよー。指輪でも埋まってるかもしんねーぞー」
 俺の心を読んだかのように、有川が上からさらに斜め上の意見を言う。俺は無視して土をほじくっていたが、指に繊維質のものが当たって驚いた。ハンカチというよりは眼鏡拭きのような質感のさらりとした布に、何か固いものが包まれている。中をさぐると、ひんやりと冷たい金属の感触。そして本当にリングの形になっている。
 まさか、マジで指輪!? なんで!? 何がどーなってるんだ!? 有川の言うとおりだったりするのか!? あの態度は敬遠されてるんじゃなくて、マジで優遇? いや贔屓!? いや待て、そんな嬉しいことがあるはずがない。これは何かの間違いだ。出してみたらきっとただのナットで……でも、内にも外にネジが切ってある様子はない。ざらついた感触はあるが、ネジではなく装飾のようだ。内側にも何か彫ってあるらしい。
「やっぱここじゃねーみてぇ」
 俺はそっと固形物を掘り出して、有川に見つからないよう握り込んだ。すると、有川が「あ、これじゃねぇ?」と屈みこんできた。手の中の物を見られたのかとビクリとする。しかし有川の手は、俺より窓側、そして俺の手元より下、植木鉢の受け皿へと伸びていて。
「手紙?」
 有川は、俺が止める間もなく鉢と受け皿の間に挟み込んであった紙片を取り上げると、四つ折りにしてあったそれを広げてしまった。
 あれがこの手中にあるものに添えられるべき文章なのだとしたら……。
 うがぁ! 有川に見られるなんて、俺、一生の不覚!
「待て、有川!」
 俺が有川の手から紙片を取り上げようとした時、
「なーんだ、このマンションの回覧のコピーじゃん」
 有川がつまらなそうに言って、表を俺に向けた。
 そこには、十月を目途に家賃の値上げを検討しているという旨が、一週間前の日付で記載されていた。
「大事な話って、家賃値上げのことかよ」
 有川が言い、俺たちは脱力してその場にへたりこんだのだった。






 落胆が去った後、俺はやっと事の重大さに気が付いた。家賃値上げは中戸さんと俺にとって、これ以上ないくらい大事な話に違いなかったのだ。
 ただ、その後発生したリーマンショックなどの影響で地価が暴落。家賃値上げは取り消しになり、俺たちは胸を撫で下ろすことになるのだが。
 そんなこと知らないこの時の俺は、バイトを変えることを真剣に悩んだのだった。








数をこなす30題

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