鏡写し 02

 栗城を案ずる中戸さんに、とにかく化粧を落としてくださいと怒声混じりに命じて、俺は涙目の栗城を連れてダイニングへ戻った。氷をタオルでくるんで、こぶのできた後頭部に当ててやる。栗城はダイニングに入るなり、テーブルに突っ伏していた。
「大丈夫か? もうバレてると思うけど、あれが中戸さんだから」
 栗城は無言で大きな溜息を吐いた。
「変な人だけど、噂ほど害はないから安心しろ。まぁ、泊まりたくなくなったなら帰ってもいいけど」
 中戸さんはゲイとしても有名だ。本当はバイなんだけど。そういう人に拒否反応を示す奴は多い。俺は平気だけど、恐怖とか嫌悪とかってたぶん生理的なものだろうから、好きになれなどと強要する気はない。それで中戸さんに嫌がらせをするような輩には、何かしたり言ったりしてしまうかもしれないが。
 栗城は前から、中戸さんがバイであることを知った上で興味を持っていたけれど、さすがに間近でオカマまがいの姿を見せられたことで引いてしまったかもしれない。しかも、倒れた時に呟いていたあのセリフ。
「大丈夫だ。びっくりしただけだから」
 栗城は氷入りのタオルを自分で持って、テーブルから頭を起こした。
「そうか」
「……そっくりだったんだ、学校で見たあの綺麗な子に」
 その顔から思わぬ低い声が出たからショックだったのだと栗城はうなだれた。
 やっぱりそうかと思ったが、俺は黙っていた。ついでに、栗城が学校で見かけたのも中戸さん本人だと確信していたが、お互いのために言わないことにした。栗城も薄々勘付いているだろう。
「それだけならまだしも、おまえの彼女候補とか言うし。ダブルでショックだよ」
「誤解するな。そこは冗談だ」
「本当かよ?」
 栗城が疑わしげに俺を見上げたところで、中戸さんが男の顔に戻ってダイニングに入ってきた。急いでいたのだろう。ブラを取り、顔だけ洗って来たようだ。マスカラが落ち切らなかったのか、目の周りがちょっと黒ずんでいる。後ろ髪も上げたままだった。
「頭、大丈夫だった? 気持ち悪いもん見せちゃって、ほんっとーにごめんな」
 中戸さんは、栗城からちょっと離れた所で、もうちょっと自覚しますと頭を下げた。
「いやいや、気持ち悪いとかそんな。びっくりしただけなんで。俺こそ失礼な態度取ってすいません」
 さすがはファミレスのホール担当。栗城はこぶを押さえつつも、爽やかに笑って、座ったままでも礼儀正しくお辞儀した。
「俺、シャワー浴びたらまたすぐ出てくから、ゆっくりしてって。あ、あと、病院とか行ったら、代金教えて。いくらだったか俊平くんに伝えといてくれたら、俺払うから」
「え、いいですよ、そんな。てか、もう出てっちゃうんですか? 有名人と一緒に飲めると思って楽しみにしてたのに」
 ダイニングの入り口で扉に手をかけていた中戸さんは、「有名人て」と苦笑した。
「まだやることあるし」
「でも、中戸さんもビデオ観ようと思って、途中で切り上げて帰って来たんでしょう」
 栗城の言い分がどこまで本心かは分からなかったが、外出先ではあまり眠れないらしい中戸さんをこんな時間に大学に返すのは気が引けて、俺は言った。
 すると、中戸さんは驚いた顔で俺を見て、おそるおそるというふうに口を開いた。
「俊平くん、怒ってないの?」
「なんで俺が怒るんですか。外で恥かいてきたのは中戸さんだけでしょう」
 もっとも、あれだけ化けていれば誰に気付かれることもなかっただろうから、恥のかきようもなかったかもしれないけど。
「いや、俺、あんなことしたし、さっき怒ってたのもそれかと……」
 あんなことというのはあれか。俺の首に巻きついて彼女候補とかなんとか言ったやつですか。
 思い当たった途端にさっきのことが思い出されて、俺は身体が熱くなった。
 炎天下を歩いてきたはずなのに、中戸さんの肌はしっとりと冷たかった。それでも、彼愛用のフレグランスの香に混じって、甘酸っぱい汗の臭いがした。
「蒔田が怒鳴るのなんていつものことですよ。見た目どおりの短気クンなんですから」
 すいませんねぇと、栗城が固まっている俺の背中をバシバシ叩いた。
「そうなの?」
「そうそう、家では違うのかもしれないけど、バイト先じゃしょっ中」
 俺の顔を見て問いかけてきた中戸さんに、栗城が調子よく応じる。
 咄嗟に反応できないでいる今の俺はとても助かったけれど、栗城の言うことはとんでもない大ボラだ。俺はバイト先でも声を荒げたことなんかない。
「けど……俺いない方がきみものんびりできるだろ」
「いやいや、そんなことないですよ! 仮にも幻の同居人ですし!」
 渋る中戸さんを、栗城がすかさず引き留める。俺は以前、ここを出ていくことを考えたことがあり、その時、栗城に中戸さんの同居人になってくれるよう頼んでいたことがあるのだ。
 中戸さんも、「ああ、君があの時の」と少し興味を見せた。
「そうそう、あの時のです。この部屋に入りそこなった栗城です」
 栗城はおどけて自己紹介をすると、テーブルの上に置いていたビデオテープに手を伸ばした。
「先輩もビデオ観るんならちょうどいいや。俺、途中で寝ちゃったのあるんですよ。それ観ていっすか?」
 どうやら本当に、栗城は中戸さんに嫌悪感を持ちはしなかったらしい。俺は少し安堵した。が、栗城が途中で寝てしまった映画の内容を思い出して、慌てて止めに入った。
「みんなで観るなら『太陽がいっぱい』にしようぜ! 中戸さんもそっちのが面白いですよ! 絶対おすすめ!」
「そんなん俺が帰ってから二人で観ればいいだろ。俺、緒方拳のだけ最後まで観れてねーんだよ。しかもここじゃないと観れないし」
「どーしても観たきゃ、今度レンタル料出してやるから自分ちのDVDで観ろよ。あんなの大勢で観たってウツになるだけって」
 栗城の言い分はもっともだ。しかし、中戸さんにあの映画は見せたくない。なのに。
「『太陽がいっぱい』なら観たことあるから、俺もその緒方拳のでいいよ。そっちにしよう」
 中戸さんは栗城の味方につきやがった。
「うし、決まり!」
 栗城はビデオ片手に立ちあがると、後頭部を冷やしていたタオルを俺に投げて寄越した。






 もうもうと肌から湯気が上がっている。タオルで何度身体を拭っても、汗が噴き出てくる。
「そんなに観たくないなら、蒔田は風呂でも入ってくれば?」
 栗城にそう言われた俺は、二人がビデオを観ている間に、言われたとおり風呂に入っていた。
 夏場はほとんどシャワーで我慢しているのだが、俺はもともと風呂好きだ。たとえ身体が伸ばしきれないマンションの浴槽でも、浸からないよりはずっと気持ちが良い。あの場に居たくないのも手伝って、俺は浴槽にたっぷり湯を張り、どっぷりと浸かった。
 熱めの湯に浸かっていると、酔いが醒めるとともに気分も少し落ち着いた。それでも出ていくのには、なかなかどうして気合い要って、ずいぶんと長湯をしてしまった。
 見たくないのはあの映画ではなく、あれを観ている中戸さんの方だ。
 でも、同じものを観たからと言って、中戸さんが俺と同じ感想を持つとは限らない。先立って騒ぐほどのことではないような気がしてきて、俺は火照る身体を素手で仰ぎながら、風呂に入って正解だったと満足した。
 しかし、サウナ地獄のような風呂場から、心地よく冷房の効いたダイニングに戻った俺は、早くも長風呂をしてしまったことを後悔した。
 俺がいない間に二人はすっかり打ち解けており、「グンジ先輩」「おう栗城」の仲になっていた。女の背後からビールを飲ませて首を絞めるという艶めかしい殺害シーンで、ビール片手にわきゃわきゃと色めき立っている様に、あんたらいくつだと突っ込みを入れたくなる。
 それでも、榎津が捕まり、その父親が獄中に面会に来るシーンになると、ダイニングもシンとした。そして栗城が言ったのだ。
「榎津が本当に殺したかったのって、自分の父親だったんだろうな」
 そうかもしれないと、俺も思った。思ったからこそ、中戸さんには見せたくなかった。












inserted by FC2 system